2016年5月19日木曜日

紀伊民報「白浜の記憶遺産」「アカ芋」 2016.5.18

白浜町瀬戸の藪本近衛さんが所有する『アカ芋』は 「白浜の記憶遺産」だと
紀伊民報で報道されました


【100年前の同人誌】
【白浜の記憶遺産】
【   「赤芋」を調査】

  100年前に創刊され、昭和中期まで白浜町の瀬戸地区で作られた文芸同人誌「赤芋(またはアカ芋)」(1~33号)を、主編集人だった故・藪本不動庵(本名・近蔵)さん=白浜町瀬戸=の長女が大切に保管している。
  同誌は発行中もごく限られた人にしか知られていなかった。
  同誌を調べている福山大学名誉教授(中国文学)の久保卓哉さん(69)=同町瀬戸=は「白浜温泉にとって資料性の高い文献も収められており、白浜の記憶遺産といえる」と評価している。

  「赤芋」は、同人の自筆原稿をそのまま製本しており、各号1冊しかない、いわゆる「天下の孤本」。筆で和紙などに書いた原稿を「こより」で中とじし、製本している。
  表紙は厚紙で、アカイモや円月島などの絵と「赤芋」「アカ芋」の題字を書いている。

  1916年12月に創刊され、32年までに32号を刊行。
  その後18年間空白があり、最終号の33号は50年12月に刊行された。12号と32号は紛失したのか保管されていない。

  同人は徐々に増え、瀬戸地区だけでなく田辺や京阪神からも参加。多い時で33人の寄稿が確認されている。

  小説、紀行、漫画、俳句、地域の便り、地元の絵、新聞の切り抜きなど内容は多様。当初は100ページほどだったが最盛期は400ページを超えた。
  同人、希望者ら限られた人たちの間で回し読みされた。

  瀬戸地区内での出来事が細かく書き込まれた文章もあり、京阪神へ働きに出た人たちに古里の近況を知らせる役目を果たした。また、「熊野三所神社境内絵図」(20年)や「鉛山鉱山見物記」(19年)など資料性の高い文献も含まれている。

  不動庵さんは旧白浜町の収入役を務め、55年5月に65歳で亡くなった。大阪市出身の俳人・松瀬青々氏主宰の「倦鳥」に出句し、松瀬氏もたびたび白浜を訪れた。

  保管している長女の藪本近衛さん(90)=同町瀬戸=は「母が大事に扱い、守ってきた。親族が読むために持ち帰っても、よく返本の催促をしていた」と笑う。三女の守衛さん(85)=田辺市新庄町=は「母から門外不出と言われていた。今年が創刊から100年目に当たるのですね」と感慨深げに話す。

  久保さんは田辺市出身。幼年期から小学6年までを白浜町御幸通りで過ごした。大学では小説家・翻訳家・思想家の魯迅を研究。小学校の同級生に「アカ芋」を教えられ、今年1月から調べている。
  久保さんは「芥川龍之介や谷崎潤一郎、佐藤春夫らが活躍した同じ時期に半農半漁の小集落だった瀬戸地区で、青年らが文芸誌を創刊し、文学を通じて互いに教養を高め合っていたことと同人の皆さんの教養の高さに驚かされた。しかも変体仮名で書かれた詩文は美しい」と話す。

  また、「アカ芋は各号1冊しかないので紛失、散逸、劣化を防ぐ必要がある。そのためにも写真本を製本し復刻版が作れれば」と保全の必要性を強調している。
  同町教育委員会は「何らかの対応を検討したい」としている。


2016年3月31日木曜日

曽我廼屋文童 そがのやぶんどう 白浜に来る 2016.3.28

曽我廼屋文童は白浜出身で白浜第一小学校と白浜中学校で 私たちと机を並べて学んだ
授業が終って下校するときは わいわいあそびながら道草をくって一緒に帰り 家についても
そのまま近くで遊んだ
小学校で教えてくれた浅利至先生(現在94歳)にとっては 文童は自慢の教え子で 浅利先生の家には 文童が出演したテレビの録画がそろっている 
浅利先生の家に行くと 必ずその録画をだして 「見てみるか 脇田が出ている」 と言いながら もう見ました と答えるのも聞かず テープを回す

同級生の浜崎はじめちゃんも同じで 「おいこの前テレビつけたら文童出とったぞ 見たか 今あのドラマしいないさか 前の再放送やと思うけど 文童うまいなあ たいしたやっちゃ」
とうれしそうに自慢する 
文童と幼なじみ 文童と同級生ということがたまらなくうれしいのだ

文童は 特別に与えられた楽屋を一人で使う役者になった
その楽屋にふさわしい暖簾を作って文童に贈ろう と 古くからの親友が立ち上がって
寄付を集め のれんの色とデザインを考え のれんに書く文字を能筆の書家が揮毫した
揮毫したのは日本に名を知られた紀州の書家で 弓庵に棲むこの人も 文童の同級生なのだ

文童を白浜に迎えて 出来上がったのれんを手渡した場所は 小学校時代の担任の先生 国本多壽枝先生の しらら であった
国本先生は まずは寄付を集めなければと 多くの人の家を訪ねて 繰り返し足を運んだ
その使命感とあふれる熱意は 南紀白浜の町を地震がおそったように揺さぶった

この美談をマスコミが見逃すわけはない
新聞は紀伊民報の記者がかけつけ テレビは和歌山テレビのカメラマンがかけつけた






2016年3月15日火曜日

ヨットでレース なごめぐしゅんほのけんた 2016.3.13

9時しゅんすけ自転車で一番乗り。荷物を積んでなごみの家へ。かーぼに、おいおきろよ、なにしやんな、むかえにきてくれたあるで、と起こされている声聞こえる。待っている間に、しゅんが二重とび軽々と10回。ほのから電話。もうでてまっているからはやくきて、先に迎えに来て。なごみが眠そうなかおなのに、にこやかに出てくる。めぐはまだ服着ている、と。
三人揃ってほのかの家へ。りんのみせのまえをゆっくりはしる、昨日のホタルの放流後別れるとき、クボヤのまえで、あした迎えに来て、と言っていたから。閉まったまま。ほのが家の前で立っていた。
新地から垣谷に抜けて田辺へ。歌をうたって、掛け合いリズム歌を歌って、車内は大音響。9時45分目良ヨットハーバー到着。熊本さんに大きな声で、おはようございます。
Op艇3はこぶ。バーゼルに乗せたop艇を、争いながら運ぶ。ケンタッキーくる。
艤装、バテん入れ、マスト立て、メインシート、ラダー合わせ、水中におろす。
二人乗りで、練習。

11時20分 昼食。待ちに待ったガストへ。前回からのやくそくだから。
なごみが撮影





2016年3月14日月曜日

白浜でホタルを放流 「 紀伊民報 」 2016.3.14

ホタルの幼虫放つ
 白浜町瀬戸で児童ら

今年こそ乱舞を見たい-。

白浜町瀬戸地区の児童らが12日、地区の側溝内にホタルの幼虫340匹を放った。

 同地区の久保卓哉さんが「昭和30年代のころのように温泉街にホタルを乱舞させよう」と、3年前に「白浜にホタルを飛ばそう会」を発足させ、近所の子どもたちに呼び掛けて幼虫を育て、毎年放流している。

 この日放流したのは、久保さん宅で飼育した約3600匹のうち、放流に適した体調3センチ前後に育ったもの。昨年は放流した幼虫がアメリカザリガニの被害に遭って全滅したため、今年はプラスチック製の小型コンテナ3個を側溝に入れ、そこに幼虫を放った。放流には児童ら10人が参加した。

 コンテナ容器には大きな石を入れている。「幼虫が4月上旬に石を伝って側溝の壁を登り、近くの草むらの土に潜ってさなぎになる。5月中旬には飛んでくれるのでは。今年は放流した数が多いので期待している」と久保さん。

 参加した白浜第一小学校1年の津多慶次君(7)は「幼虫を見たのは初めて。ホタルが飛ぶのが楽しみ」と笑顔で話した。

(2016年3月14日『紀伊民報』沖本記者)

2016年3月12日土曜日

ホタル352匹を放流 2016.3.12 

午後一時おじちゃんち集合
なごみ、ほのか、しおり、おとは、りん、ゆうま、しゅうま、まりか、けいじ、風美望、けいくん、京ちゃん、

後で、大きな幼虫12匹を追加放流。合計352匹。

メッセージ
集まれホタルメンバー  3月12日土曜日13時  おじちゃんち
ホタルの幼虫をえらぶ  幼虫をはこんで田尻の川へ行く
川に入って幼虫を放流
 ながぐつ(川の水は3cmしかないけれどね)
 『紀伊民報』がインタビューにくるよ


3つの発泡スチロールに幼虫を分散

幼虫が入ったコップを持って川におりる