1975. 8. 22
CHIZURU HOSONO(J.O.C.V)
A/S Ambassade du japon 16,Rue Jugurta,Notre Dame, Tunis,Tunisie
お元気でいらっしゃいますか:8月のチュニスは毎日雲一つない天気です。
白い家と綠のひろがる街の上の空は日本で見たことがないくらい大きく見えます。
チュニスの表通りはフランス式の建物が並んでいてパリに少し似ています。
放射状の広場を中心にした道路など。
でも今日一日、市街、メジナとかスークとか呼んでいるアスバを中心とした地域ですが、そこへ行きました。
細い路地がくねくねとつづいて、自分の居場所も出口もわからないまま、行けども行けども同じような穴ぐらの中の小さな店が延々とあります。
ここにはめずらしい現地人の生活品を売る店や暗い部屋の奥でそれを作る所があります。
この絵葉書と関係ないことを書きましたが。
これは地中海です。この前の土曜日初めて見ました。
波のない海の上にヨットが浮かんでいました。夢のようにきれいに見えました。
目下家をさがしています。
海の見える所に住みたいと思います。
いつか又メジナの絵葉書を送ります。お元気で。
日本のようす知らせて下さるのはうれしいのですが。
8/22
1975.10. 2
CHIZURU HOSONO
A/S Ambassade du japon 16,Rue Jugurta,Notre Dame,Tunis ,Tunisie
お手紙どうもありがとうございました。楽しく読ませてもらいました。
どこででも手紙が来るのはうれしいものだと思いますが、ここチュニジアという外国では特にそうです。
今日来なくてもいつか来ると思ったり、今日手紙がくるかもしれないと思って朝目を覚ましたりするだけで、外国で友だちのいない寂しさも消えてしまいます。
空と海は日本にない美しさを見せています。毎日視界のほとんどを占める青い半球を見るたびに私は地球が星の一つだったことを、宇宙に浮かんでいることを思いだします。
街を見てもきれいなのはきれいですが、日本人の衛生観念で見ると何でも少しずつ不潔です。
ハエがたくさんいて日本から持って来たハエとり紙が役に立ちます。
果物屋、やおや、肉屋、病院、どこででも。
チュニジアはこれといって産業のない観光立国です。チュニス近辺の海辺は年々観光客避暑客が増えるにしたがって俗化されていっているそうです。
海辺、地中海にそって、白いヴィラ別荘が並んでヨーロッパ人などがたくさんいます。
チュニスの街も年々暮らしにくく、そしてここの人たちも観光客ずれしてきているようです。
何年か前チュニスに3年住んでいたアメリカの平和部隊の女性が今年来てそういっていました。
8月の終りころチュニスの街が黄塵にまみれて見えなくなるほど強い風が吹きました。
ここの人は季節が変わる夏は終ったと言いました。
涼しい日が幾日か続きました。
9月に入って又暑い日、8月とちがって蒸し暑い湿度の高い日がずうっと続いています。
雨季にになるようです。
日本ではそろそろ秋の気配が濃くなるこのごろだと思うのですが。
蒸し暑くほこりの多い日には日本の秋の透き通るような日射しと澄んで行く空を思いだします。
私のフランス語は随分下手くそのようで来た当初はさっぱり通じませんでした。
劣等感におちいり、しかも私は生来おしゃべりでないのでここの人たちはずけずけと私のことをフランス語が分からないと言います。
今もそうです。
しばらく随分自信をなくしここの人たちの話すこともますます分からなくなっていたのですが、一カ月経った今私は私のフランス語がうまくないという、ここの人たちこそあまりうまくない、ということに気づいてきました。
ほとんどの人がなまりのあるフランス語で話します。
ここの人たちは沈黙の美徳というものを解さないらしく、私などは恐くなるほどよくしゃべり自己主張をします。
私はたいてい人の話すのをだまって聞いていて楽しんでいるのですが、ここの人たちはそういう私の態度をいつも理解できないようです。
フランス語があまりよく分からない無教養の人間だという哀れむような視線をうけながら、出身地のなまりの強い単語でやっとフランス語だと分かる程度の発音でまくしたてられたら、たまったものではありません。
英語も同様でこれが英語かと思うような英語でも自信たっぷりで話をし、英語を知っていることをとても誇らしく思っているようです。
チュニス在住の日本人は20人ばかりいます。大使とその家族、大使館員とその家族、私達協力隊、一人の私費留学生、そして時々旅行者と、少ないのでみんな何やかやと行き来し、助け合っているようです。
小さな日本人社会を作っているのですが、日本にいるようなわけにはいかず、この国の法律とか慣習とか守らなければならないし、又大使の監視下にいるようで
おかしな興味のある社会です。
チュニスは住宅難で東京並みの値です。
お金の都合で私はアパートを大使公邸の日本人コックさんと共同で借りました。
彼は住み込みですが、やがて彼の花嫁さんになるであろうチュニジア人の女の人を私のアパートにいっしょに住まわせるつもりです。
彼女と結婚するために彼は回教徒になり今はラマダン(断食月)中です。
ここの男の人が外国人の女と結婚するのはやさしいですが、ここの女性が外国の男とするのはとてもむつかしいようで、大使もなかなか認めてくれないそうです。
法律では契約書を交わせばよいのですが宗教上慣習にてやかましく、彼女は100人余りの親戚を一人ひとり説得しなければならないそうです。
中には彼を殺してしまうとかいう者もいるそうですが、いざとなったら彼女はチュニジアを捨てても結婚する気のようです。
ここの女性は日本の女性よりも自由ではありません。 ここの男の人たちは、女の人にとても親切です。自然にやってのけます。
街を歩いていると簡単に声をかけ話をしようとか、お茶を飲もうとか、海へ行こうとか、散歩しようとか言います。
しばらく話をし楽しんでいると、いつ結婚しようかと言い出します。私は最初馬鹿にされているのかしらと思いました。
そんな事をいく度か繰り返しているうちに飽きてきて、私は声をかけられても相手にならなくなりました。
聞いてみるとここの男の人はみんなそんな風なのだそうです。
カフェにすわって人を待っているとその間ずうっと私の前にすわって話をしかけた人、私が借家をさがして歩いていた時、借家まわりをいっしょにしてくれた人、仕事で郵便局とか行くのに着いて来てくれた人、
ここの男の人が女のために使う時間というのは日本の男の人に比べて随分多いのではないでしょうか。
この国は風紀の取り締まりが厳しく、大人同士でも男女のつきあいは日本ほども自由ではないようです。
街を手をつないで歩いている男女がいれば、それはチュニジア人ではなく外国人だと言われます。
そのためかどうかは分かりませんが男の人たちの態度は一見西洋の紳士風ですが、とても洗練されているとは言い難いものです。
女に近づいてゆきながら相手の心理や立場に無神経で自己中心なのが見えすくことも応々で、パーソナリティをかけて遊ぶ精神のゆとりなどないように見えます。
でも私が何かで困った時は必ず手助けをしてくれるのも男の人たちなのですが。
勤勉とは言いがたいチュニジアの郵便局員ができるだけ早くこの手紙を日本へ送ってくれることを祈りながら。
9/30
1975.11.10
10月9日付のお手紙ありがとうございました。
ここの生活に慣れてきてだんだん日本のことを忘れてゆく半面、日本からのおたよりは自分の過去をあらためて思い出させてくれます。
このごろよく人に話すことでもありますが、最初ここに来たばかりのころは、何を見ても何を聞いても日本の方が良いように思えていたのが、
このごろは日本よりこちらの良い面ばかり気づくようになりました。
日本のこと忘れていっています。
かといってここではどこまでも外国人でしかなく、生活を根付かせることはむるかしくどのようにしてここの社会に入り込むか、
目下試みはじめたばかりです。
秘書という仕事は私の興味をひきません。この私の仕事を利用してここの社会を知ること知って楽しむことにしています。
日本にいるより外国居住者の地位、大使館勤務の地位を利用して、幅広い層の人たちと接触することが可能です。
常に自分のまわりを未知のものがとりまいているというのはとても幸せなことに思えます。
もっと早く返事を書くつもりだったのですが、ちょっとした仕事があってできませんでした。
10月末、一週間ほど総理府派遣日本勤労青年海外派遣団11人の一行がやって来て、チュニジアの各所を見て回りました。
その滞在中昼夜を共にして、世話係兼通訳をたのまれました。
行ったことのないチュニジア南部にもつきそいで行けるとあってよろこんだのですが、言葉ができずに外国に滞在するということが、
どんなに大変で、かつ、面白くないか、通訳がどんなに精神的負担のかかる仕事か、思い知らされました。
まるで11人の赤ん坊の世話を一人でしているようでした。言葉だけ正確に訳していたのでは互いの気持ちを伝えることは不可能ですし、私一人その気持ちをくむことができたにしても、
それを互いに伝えるほどの余裕はないし、とても疲れました。
私は旅行によってその土地の何が分かるか、ということに否定的ですし、その上
言葉ができないで一体彼らは何をしに来たのかと思います。
迷子になることを恐れ、お金をなくすることを恐れて、何ができるでしょう。でもおかげでふつう一人ではとても行けない所、見学できない工場や農場や市場など、今まで知らなかった所が見られて、うれしかったです。
少しいじわるですが、私は日本人を外国人として時々見るようになりました。
私の中の日本人の意識がうすくなっていっています。
チュニスを一歩出るとなめらかに起伏する茶色い荒れた土地がずうっと地平線まで続いています。
舗装された道のそばをユーカリが並んでいて、時々オリーブの木がきちんと植わっている一群を見る他何もありません。
その広野で米粒のように見える人間が一人でお祈りをしているのを見ました。
それは日本の生活ともチュニスでの生活ともちがう、別の世界の出来事のようでした。
イスラムの古都ケイロワン、15世紀の城壁に囲まれた街、スースの港、モナスティールの海。
この海のすばらしさをどのように伝えたらよいか分かりません。
この海を毎日ながめこの空気を吸い、この空を自分のものとして死ぬまで生きていきたいという気を起こさせます。
スースでひと晩、ホテルの中のナイトクラブをのぞきに行きました。
そこはもうイスラムの国チュニジアではなく、チュニジアの中にあるヨーロッパです。
チュニジアダンスは観光用の見世物でしかなくドレスの女の人、タキシードの男の人、ヨーロッパの音楽、ダンス、
シャンパンを抜く音。
ホテルの林立する海辺は異様なくらいチュニジアのにおいがありません。
この国には世界一といわれるローマ時代の水道跡があります。
茶色い荒地が果てまで続く平原に、延々30kmに及ぶ水道跡を見ました。
イスラム教というのは厳しい宗教のようですがここチュニスではあまり熱心に守られていないようです。
アッラーは信じているがその戒律は実行していないといった風です。
酒は飲むし、一日五回の礼拝も、勤め人など時間がとれないことを理由にしていないみたいです。
でも女性に対しては厳しく、カフェやバーなどで女を見かけることはありません。
小さな時から家事をしつけられて結婚につごうのよい女性が良いとされているようです。
お酒を飲む女、料理など上手にしない女、外に出歩くことが好きな女は、良くは思われません。
婚約者以外の男の人と歩くことに対する人の目は厳しいし、処女でなければ結婚はむつかしいと言っています。
ここの結婚式は女性にとって屈辱的です。
一度結婚式を見ましたが、多くの人が集まり音楽をならして太鼓をたたき、躍ってさわいでいる中、花嫁一人、おどおどとみんなを見まわしているだけでした。
私は視線が合って笑ってみせたのですが、彼女はにこりともしませんでした。
他の人の話を聞くと、無理もないと思うようになりました。
何につけても男と女の差ははっきりつけてあります。
ここの女性は日本の女性よりも自由ではありません。
家事など私より年下の女性でもうんとよく知っていますが、
束縛が多いためか精神的に幼いと思います。
ここの男は女を束縛しやさしく甘やかし弱くしています。
私はもの足りなく思います。
チュニジア人の男の人はチュニジア人の女の人とつきあうことが容易ではないので、外国人に近づくのだと言われています。
男と女の考え方、結婚、恋愛、日本と随分ちがっているようです
私は海外青年協力隊)(J.O.C.V)でチュニスに来ています。
似ている組織がアメリカにあり、ピースコーと呼んでいます。ピースコーの人たちはチュニジアに100人くらいいるそうです。
私は海外青年協力隊からチュニジアに派遣された3人目の隊員です。
これから隊員が少しずつ増えて私の仕事もいそがしくなると思います。
では又書きます。今日はこの辺で。
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