2020年9月12日土曜日

OP ベルギー kayaのセーリング

 


8月29日

volvo opti tour sneh の 説明をしている女性コーチの

後ろにある大きなボードの図示の記述を 興味深く読みました。

帆走ルールの基本を、わかり易く大きなパネルにしているね。

出艇の写真では空に黒い雲。突風が吹きそうなけはい。

kayaの9が風上マークを1位で回航。

風下に向けて回航するとき、、ユヤや、ユヤと同年齢の4.7の選手達は、出すシートを上に上げておいて、回航とともにシートを出していたけれど、今回のoptiは

まだ言及していないのかな。

1と12の2艇を抜いて、less , 2,に続いてkayaの9は、3位でfinish。

1と12を抜いたのは、kayaの9が、2艇よりも風上にいたからだね。

この日は、陸?(カメラ側)から、blowが吹いていたね。

風上マーク回航の動作。

微風だったので、kayaは立ち上がってブームをドンと押したね。

微風の時は、ブームを押すとブレーキがかかるよ。

この時は、回航後すぐにジャイブする風だったから、

ブームをつかんで力をこめて引き、反対側にむかって、団扇のようにあおると、

少しスピードをかせげるんだけどな~。

7 と9と10が風上航。kayaのセーリングがよかったよ。

7は、blowのたびセールにうらかぜを入れていたけれど、

kayaはblowの力を活かして、グ~ンとスピートが上がり、角度も上がっていたね。

ガンネルにすわるkayaのひざが長く、高く見えて、まあkayaは大きくなったな~、

と感想。

less, 12, 7, 3, 9 の順で風上マークを回航。

これがランチ前の第3レースだったのかな。

この時は、陸(カメラ側)からblowが来ていると分かっているから、

風下マークからの風上航では、oneタック 入れて、先行する4艇よりも

1挺身でも風上でセーリングするべきだと思ったよ。

ランチ。

両手を使わないと持てないくらい 大きな、なが~い、パン。

うまそ-。

風上マーク、kayaの9が、ダントツのtop回航。

だいぶ遅れて、less, 7, 1, 12, 4

このlessの赤色服選手は、上手だな、と、

この時点までの動画と写真を見ていて思った。

風上マーク。

kayaの9がtop回航。つづいて、less(オレンジフード), 2, 8,less(赤色服)

クリちゃんと誰かのお母さんが話している。

話しぶりからすると、クリちゃんは余裕たっぷり。kayaがよく走っているから。

誰かのお母さんは、lessの選手の、お母さんかな、と、思ったよ。

このレース。kaya9は、finish直前に lessに抜かれて2位に。

blowが 原因だけれども、この時の基本。

 風下マーク回航後、topのkayaはポートタックで長く走りすぎた。

 2位以下が風下マークを回る前に、oneタックを入れておき、

 2位が風下マークを回る頃に、2回目のタックをする。

 そうすると、風が変化しても、抜かれることがない。



laser 4.7 ベルギー yuyaのセーリング


 少し風下におとしてスピード帆走と波乗り動画を見た。

ユヤはプレーニングして安定してセーリングしていたけれど、
もっともっとハイクアウトを。トレーニング中なんだから練習練習。

165777radialは、センターボードをひと上げすべきなのにな~。

ユヤのハイクアウトの姿勢は、首がひどく疲れてきそうな姿勢に見えるよ。
あと5cm外に出る、とか、あと5cmお尻を落とす、とか、いろいろやってみて。

205322 4.7が風下にいて、ユヤの165777が風上にいて、並んで競り合っていたね。
コーチがユヤに声かけた時は、ユヤの方がいいスピードといい角度で、競り勝っていたのに、じょじょに風下の205322が前に出てしかもユヤのラインまでのぼって来たね。

ユヤの艇がheelしたからだよ。heelは一度させたら、スピードが落ちて風下に流されるよ。
205322の選手が、身長も体重も大きいから、仕方がないとあきらめたら、あかん。

ユヤがblowに合わせて、思いきりハイクアウトする。
それでもheelしそうなら、
1cmシートをゆるめて、そのぶんだけ、ティラーを引いて風下に向ける。

すると、スピードが出るから、風のblowの力がセールを押さずに流れてゆき、
艇をheelさせなくなり、身長、体重が小さくても、競り合いに負けない。

そのくり返しを、ず~とやり続けるのが、基本だよ。

2020年9月8日火曜日

細野ちづる チュニジア・チュニス 海外青年協力隊 1975

 


1975. 8. 22
 CHIZURU HOSONO(J.O.C.V)
A/S Ambassade du japon 16,Rue Jugurta,Notre Dame, Tunis,Tunisie

お元気でいらっしゃいますか:8月のチュニスは毎日雲一つない天気です。
白い家と綠のひろがる街の上の空は日本で見たことがないくらい大きく見えます。
チュニスの表通りはフランス式の建物が並んでいてパリに少し似ています。
放射状の広場を中心にした道路など。
でも今日一日、市街、メジナとかスークとか呼んでいるアスバを中心とした地域ですが、そこへ行きました。
細い路地がくねくねとつづいて、自分の居場所も出口もわからないまま、行けども行けども同じような穴ぐらの中の小さな店が延々とあります。
ここにはめずらしい現地人の生活品を売る店や暗い部屋の奥でそれを作る所があります。
この絵葉書と関係ないことを書きましたが。
これは地中海です。この前の土曜日初めて見ました。
波のない海の上にヨットが浮かんでいました。夢のようにきれいに見えました。
目下家をさがしています。
海の見える所に住みたいと思います。
いつか又メジナの絵葉書を送ります。お元気で。
日本のようす知らせて下さるのはうれしいのですが。
8/22

1975.10. 2
CHIZURU HOSONO
A/S Ambassade du japon 16,Rue Jugurta,Notre Dame,Tunis ,Tunisie

 お手紙どうもありがとうございました。楽しく読ませてもらいました。
どこででも手紙が来るのはうれしいものだと思いますが、ここチュニジアという外国では特にそうです。
今日来なくてもいつか来ると思ったり、今日手紙がくるかもしれないと思って朝目を覚ましたりするだけで、外国で友だちのいない寂しさも消えてしまいます。
 空と海は日本にない美しさを見せています。毎日視界のほとんどを占める青い半球を見るたびに私は地球が星の一つだったことを、宇宙に浮かんでいることを思いだします。
街を見てもきれいなのはきれいですが、日本人の衛生観念で見ると何でも少しずつ不潔です。
 ハエがたくさんいて日本から持って来たハエとり紙が役に立ちます。
果物屋、やおや、肉屋、病院、どこででも。
チュニジアはこれといって産業のない観光立国です。チュニス近辺の海辺は年々観光客避暑客が増えるにしたがって俗化されていっているそうです。
海辺、地中海にそって、白いヴィラ別荘が並んでヨーロッパ人などがたくさんいます。
チュニスの街も年々暮らしにくく、そしてここの人たちも観光客ずれしてきているようです。
何年か前チュニスに3年住んでいたアメリカの平和部隊の女性が今年来てそういっていました。
 8月の終りころチュニスの街が黄塵にまみれて見えなくなるほど強い風が吹きました。
ここの人は季節が変わる夏は終ったと言いました。
涼しい日が幾日か続きました。
 9月に入って又暑い日、8月とちがって蒸し暑い湿度の高い日がずうっと続いています。
雨季にになるようです。
日本ではそろそろ秋の気配が濃くなるこのごろだと思うのですが。
蒸し暑くほこりの多い日には日本の秋の透き通るような日射しと澄んで行く空を思いだします。
 私のフランス語は随分下手くそのようで来た当初はさっぱり通じませんでした。
劣等感におちいり、しかも私は生来おしゃべりでないのでここの人たちはずけずけと私のことをフランス語が分からないと言います。
今もそうです。
 しばらく随分自信をなくしここの人たちの話すこともますます分からなくなっていたのですが、一カ月経った今私は私のフランス語がうまくないという、ここの人たちこそあまりうまくない、ということに気づいてきました。
ほとんどの人がなまりのあるフランス語で話します。
ここの人たちは沈黙の美徳というものを解さないらしく、私などは恐くなるほどよくしゃべり自己主張をします。
 私はたいてい人の話すのをだまって聞いていて楽しんでいるのですが、ここの人たちはそういう私の態度をいつも理解できないようです。
フランス語があまりよく分からない無教養の人間だという哀れむような視線をうけながら、出身地のなまりの強い単語でやっとフランス語だと分かる程度の発音でまくしたてられたら、たまったものではありません。
 英語も同様でこれが英語かと思うような英語でも自信たっぷりで話をし、英語を知っていることをとても誇らしく思っているようです。

 チュニス在住の日本人は20人ばかりいます。大使とその家族、大使館員とその家族、私達協力隊、一人の私費留学生、そして時々旅行者と、少ないのでみんな何やかやと行き来し、助け合っているようです。
 小さな日本人社会を作っているのですが、日本にいるようなわけにはいかず、この国の法律とか慣習とか守らなければならないし、又大使の監視下にいるようで
おかしな興味のある社会です。
チュニスは住宅難で東京並みの値です。
お金の都合で私はアパートを大使公邸の日本人コックさんと共同で借りました。
彼は住み込みですが、やがて彼の花嫁さんになるであろうチュニジア人の女の人を私のアパートにいっしょに住まわせるつもりです。
彼女と結婚するために彼は回教徒になり今はラマダン(断食月)中です。

 ここの男の人が外国人の女と結婚するのはやさしいですが、ここの女性が外国の男とするのはとてもむつかしいようで、大使もなかなか認めてくれないそうです。
法律では契約書を交わせばよいのですが宗教上慣習にてやかましく、彼女は100人余りの親戚を一人ひとり説得しなければならないそうです。
中には彼を殺してしまうとかいう者もいるそうですが、いざとなったら彼女はチュニジアを捨てても結婚する気のようです。
ここの女性は日本の女性よりも自由ではありません。
 ここの男の人たちは、女の人にとても親切です。自然にやってのけます。
 街を歩いていると簡単に声をかけ話をしようとか、お茶を飲もうとか、海へ行こうとか、散歩しようとか言います。
 しばらく話をし楽しんでいると、いつ結婚しようかと言い出します。
私は最初馬鹿にされているのかしらと思いました。
そんな事をいく度か繰り返しているうちに飽きてきて、私は声をかけられても相手にならなくなりました。
聞いてみるとここの男の人はみんなそんな風なのだそうです。
 カフェにすわって人を待っているとその間ずうっと私の前にすわって話をしかけた人、私が借家をさがして歩いていた時、借家まわりをいっしょにしてくれた人、仕事で郵便局とか行くのに着いて来てくれた人、
ここの男の人が女のために使う時間というのは日本の男の人に比べて随分多いのではないでしょうか。

 この国は風紀の取り締まりが厳しく、大人同士でも男女のつきあいは日本ほども自由ではないようです。
街を手をつないで歩いている男女がいれば、それはチュニジア人ではなく外国人だと言われます。
そのためかどうかは分かりませんが男の人たちの態度は一見西洋の紳士風ですが、とても洗練されているとは言い難いものです。
女に近づいてゆきながら相手の心理や立場に無神経で自己中心なのが見えすくことも応々で、パーソナリティをかけて遊ぶ精神のゆとりなどないように見えます。
でも私が何かで困った時は必ず手助けをしてくれるのも男の人たちなのですが。
 勤勉とは言いがたいチュニジアの郵便局員ができるだけ早くこの手紙を日本へ送ってくれることを祈りながら。
9/30

1975.11.10

 10月9日付のお手紙ありがとうございました。
ここの生活に慣れてきてだんだん日本のことを忘れてゆく半面、日本からのおたよりは自分の過去をあらためて思い出させてくれます。
このごろよく人に話すことでもありますが、最初ここに来たばかりのころは、何を見ても何を聞いても日本の方が良いように思えていたのが、
このごろは日本よりこちらの良い面ばかり気づくようになりました。
日本のこと忘れていっています。
かといってここではどこまでも外国人でしかなく、生活を根付かせることはむるかしくどのようにしてここの社会に入り込むか、
目下試みはじめたばかりです。
 秘書という仕事は私の興味をひきません。この私の仕事を利用してここの社会を知ること知って楽しむことにしています。
日本にいるより外国居住者の地位、大使館勤務の地位を利用して、幅広い層の人たちと接触することが可能です。
常に自分のまわりを未知のものがとりまいているというのはとても幸せなことに思えます。
 もっと早く返事を書くつもりだったのですが、ちょっとした仕事があってできませんでした。
10月末、一週間ほど総理府派遣日本勤労青年海外派遣団11人の一行がやって来て、チュニジアの各所を見て回りました。
その滞在中昼夜を共にして、世話係兼通訳をたのまれました。
行ったことのないチュニジア南部にもつきそいで行けるとあってよろこんだのですが、言葉ができずに外国に滞在するということが、
どんなに大変で、かつ、面白くないか、通訳がどんなに精神的負担のかかる仕事か、思い知らされました。
 まるで11人の赤ん坊の世話を一人でしているようでした。
言葉だけ正確に訳していたのでは互いの気持ちを伝えることは不可能ですし、私一人その気持ちをくむことができたにしても、
それを互いに伝えるほどの余裕はないし、とても疲れました。
私は旅行によってその土地の何が分かるか、ということに否定的ですし、その上
言葉ができないで一体彼らは何をしに来たのかと思います。
迷子になることを恐れ、お金をなくすることを恐れて、何ができるでしょう。
でもおかげでふつう一人ではとても行けない所、見学できない工場や農場や市場など、今まで知らなかった所が見られて、うれしかったです。
少しいじわるですが、私は日本人を外国人として時々見るようになりました。
私の中の日本人の意識がうすくなっていっています。
 チュニスを一歩出るとなめらかに起伏する茶色い荒れた土地がずうっと地平線まで続いています。
舗装された道のそばをユーカリが並んでいて、時々オリーブの木がきちんと植わっている一群を見る他何もありません。
その広野で米粒のように見える人間が一人でお祈りをしているのを見ました。
それは日本の生活ともチュニスでの生活ともちがう、別の世界の出来事のようでした。
イスラムの古都ケイロワン、15世紀の城壁に囲まれた街、スースの港、モナスティールの海。
この海のすばらしさをどのように伝えたらよいか分かりません。
この海を毎日ながめこの空気を吸い、この空を自分のものとして死ぬまで生きていきたいという気を起こさせます。
スースでひと晩、ホテルの中のナイトクラブをのぞきに行きました。
そこはもうイスラムの国チュニジアではなく、チュニジアの中にあるヨーロッパです。
チュニジアダンスは観光用の見世物でしかなくドレスの女の人、タキシードの男の人、ヨーロッパの音楽、ダンス、
シャンパンを抜く音。
ホテルの林立する海辺は異様なくらいチュニジアのにおいがありません。
この国には世界一といわれるローマ時代の水道跡があります。
茶色い荒地が果てまで続く平原に、延々30kmに及ぶ水道跡を見ました。
 イスラム教というのは厳しい宗教のようですがここチュニスではあまり熱心に守られていないようです。
アッラーは信じているがその戒律は実行していないといった風です。
酒は飲むし、一日五回の礼拝も、勤め人など時間がとれないことを理由にしていないみたいです。
でも女性に対しては厳しく、カフェやバーなどで女を見かけることはありません。
小さな時から家事をしつけられて結婚につごうのよい女性が良いとされているようです。
お酒を飲む女、料理など上手にしない女、外に出歩くことが好きな女は、良くは思われません。
婚約者以外の男の人と歩くことに対する人の目は厳しいし、処女でなければ結婚はむつかしいと言っています。
ここの結婚式は女性にとって屈辱的です。
一度結婚式を見ましたが、多くの人が集まり音楽をならして太鼓をたたき、躍ってさわいでいる中、花嫁一人、おどおどとみんなを見まわしているだけでした。
私は視線が合って笑ってみせたのですが、彼女はにこりともしませんでした。
他の人の話を聞くと、無理もないと思うようになりました。
何につけても男と女の差ははっきりつけてあります。
ここの女性は日本の女性よりも自由ではありません。
家事など私より年下の女性でもうんとよく知っていますが、
束縛が多いためか精神的に幼いと思います。
ここの男は女を束縛しやさしく甘やかし弱くしています。
私はもの足りなく思います。
チュニジア人の男の人はチュニジア人の女の人とつきあうことが容易ではないので、外国人に近づくのだと言われています。
男と女の考え方、結婚、恋愛、日本と随分ちがっているようです
 私は海外青年協力隊)(J.O.C.V)でチュニスに来ています。
似ている組織がアメリカにあり、ピースコーと呼んでいます。ピースコーの人たちはチュニジアに100人くらいいるそうです。
私は海外青年協力隊からチュニジアに派遣された3人目の隊員です。
これから隊員が少しずつ増えて私の仕事もいそがしくなると思います。
 では又書きます。今日はこの辺で。
 11/7

何偉明 香港 1973年5月15日 書信

 








1973年春 日本訪中大学生の一員として 香港、金門ホテルに滞在したとき

お世話になった 何偉明さんの書信

天王寺中学9組 「日記」 榎原慎之助先生の筆跡

 

榎原先生 美的な筆跡(左頁) 10月3日(月)晴
月曜日には「道徳」の時間があり、榎原先生が9組の教室で一時間話してくれた。榎原先生は専門が美術なので、ふだんは美術準備室にいる。だから授業のために教室に入ってくることは少なく、長身の先生が姿をあらわす日は僕たちにとって特別な日だった。
 ガラガラと大きな音をたてて扉を引き開け、ガシャンとまた大きな音をたてて扉を閉める。音は廊下を伝わって二つ三つ向こうの教室にも聞こえていた。どの教室も「道徳」だから大きな音は迷惑なはずだったのに、榎原先生は平気で大きな音を立て教室に入って来た。僕たちにとって緊張の瞬間だった。
 英語や数学、国語などの先生は、チョークを持ち、辞書を手に、そして出席簿をかかえて入ってくるのに、榎原先生はいつも手ぶらだった。ジロッと見わたされるだけで、僕たちは背筋を伸ばした。
 榎原先生の言葉はいつも難しく謎めいて哲学的だった。荒々しい声がよけい僕たちを
迷わせた。

 日記の到る所に榎原先生のことが書かれている。ぼくにとって10月3日の「道徳」について書いた日記は、忘れることができない思い出となっている。
 ぼくが榎原先生の「道徳」の感想を日記に書いたところ、榎原先生は、青インクの万年筆で所見を書き込んでくれたからだ。
 榎原先生が使う万年筆は、忘れもしない、胡瓜と同じくらい太いもので、軽くにぎるだけで書くのを見た。つまり、万年筆の重さを手にもたせかけたまま、紙の上をすべらすだけで書くのだ。

榎原先生の万年筆で書かれた所見:
「うれしいことをいってくれる 俺はそういう人になりたいとも思い そうとも思わぬ
 やはりおれはおれである ほんもののおれになりたく いよいよ勉強です
 まだまだ しかし いつかわ何かをつかもうと 努力しよう
 君も」

ぼくが書いた道徳の時間の日記:
「僕は毎週月曜日の道徳の時間が好きになっている。
 榎原先生の話を聞く時は、みんなし~んとして、ちゃんと座っている。
 きゅうくつな感じがするけれども、僕の気持とみんなの気持が、一緒みたいに思え
 たのもしい気もする。
 今日は「習は性を生じる」ということを教わった。「体教」「自力本願」ということばも 出て来た。
 先生はお経というものが好きらしい。僕は好きではないけれども、興味はある。
 僕は先生を「沢庵和尚」「本阿弥光悦」「柳生石舟斎」「愚堂和尚」「柳生但馬守」等
 色々の人と思っている。」

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榎原先生の筆跡 宿題を出された 11月6日(日)晴
榎原先生の筆跡:
 「○ 色々と考えてみること
  ○ そして それを考えなおしてみる 何とおりにも
  ○ それは 書いてみること 書いてみて これを読んだ人は 自分の感動を
   実感として そのまゝ 受けとってくれるだろうか わかってくれるだろうか」
 「宿題
  ○ “考えることはよい でも考えにおぼれてはいけない” について

11月6日のぼくの日記:
 「今日10時に上六へ集まり臨時特急へ乗った。八戸ノ里から花園あたりへくると、
  白浜のように空気がすんでいた。僕は大変気持がよかった。
  僕はあやめ池は京都の方にあると思っていたけれども、近鉄奈良線だった。
  奈良へ着くと大変な人出で混雑していた。僕等は先に正倉院展へ行った。
  約百点の品々は、奈良天平文化時代の物で、710年から760年ぐらいの物だった。
  税金、納状、の字などは今のと変わりがなかった。今から1200年前の字が、今と
  同じだと思うと、変な気がした。
  そこから若草山へ行った。そうして弁当を食べて遊んだ。
  今日一日はまったく気の晴れ晴れとした、いい日だった」

榎原先生はぼくに釘をさした。


11月20日

11月22日

11月30日

12月3日

7月4日

天王寺中学9組 日記 「白鳥会」

 

「読書会を作れへんか」と言い出したのは時田だった。
  家へ帰ってすぐ辻本君と時田君の家へ行った。そうしていろいろ話し合った。
  というのは、今日同じバスで帰った時、辻本は本に対して読む意欲がわいて来たらし
  かったので、岩波文庫の会へ入るようにすすめたら、「入る」と言った。
  それがきっかけで本の話をしていると、時田が「僕等で読書会作れへんか」と言い出した。
  僕も同じような事を考えていたので、すぐ決まった。その会を「白鳥会と命名しよう」と、僕が言った。
  白鳥会というのは『次郎物語』の次郎達の会の名をとったのである。(9月21日)

金井の感想 11月12日(土)晴後曇
僕等白鳥会は、今日、僕の家で開いた。本は「恩讐の彼方に」という菊池寛の作品である。
  僕はこの本は小学校の時からあらすじなどは知っていた。
  白鳥会は、金井君と井上君を入れて五人でやった。金井君はこの会の感想として
  「冗談半分に笑いながらふだけた態度でやると思ったけれど、久保君も時田君も
   けじめをつけて、始まると同時に態度がかわった」
  と言って感心していた。
  今日は大変長時間(三時間)に渡って話し合いをした。こんどからは、記録するため
  と、知識を深めるために、「新聞」をつくって、わら半紙に個人の感想、意見、を書き、発行することになった。
「あすなろ物語」をまだ読んでいない 11月18日(金)曇後雨
僕は白鳥会で決めた本「あすなろ物語」をまだ読んでいない。だから、今日責められた。
 これで一つ僕の信用は落ちた。(11月18日)

発行する「新聞」について話合った 11月19日(土)曇
今日時田君の家で白鳥会をすることになっていたので、僕は二時頃自転車で行った。
 するとおばちゃんが出て来て、まだ帰ってないらしかった。また来ますと言って、
 布施へ「あすなろ物語」を買いに行って戻った。
 時田君は帰っていた。金井君と僕は途中で会ったので一緒だった。井上君と辻本君はまだ来ていなかった。
 僕は本を全然読んでいなかったので、発言はしなかった。僕が発言しないためか、
 会ははかどらなかった。というのは、
 いつも僕と時田君とばっかりがしゃべって、金井君が入って来てからは少し変化があったが、今日はあまり活発ではなかった。
 僕たちはその後発行する「新聞」について話し合った。)(11月19日(土))

 今日は前回の白鳥会の続きを、井上の所でした。井上の所と言うのは、彼のおばあちゃんの家がある、浜寺で、そこは家が大変広く、静かで、古風な、美しい感じだった。
 白鳥会は「あすなろ物語」である。みんな、真面目に活発に意見を出し合ったが、
 みかんやお菓子を出してくれるし、庭のはたなので、ちょっと休む時間のはずが、
 自然に長くなってしまった。
 「白鳥会ノート」には詳しく内容が書かれてある。まずまずの運営であった。
 その休み時間、時田君と二人で、どっちも未熟な(しかしその時は、いかにも
 相手の事を知っているらしくして)考えの浅い議論を戦わせた。

白鳥会 名簿 会費20円
この名簿を見ると、白鳥会は、最初は、辻本、井上、時田、久保の4名で、
その後、金井が加わったようだ。
会費20円、合計100円の資金で、新聞を出すつもりだった、もよう。

[白鳥会で読んだもの]
 真実一路
 黒猫
 黄金虫
 宮本武蔵
 次郎物語
 恩讐の彼方に
 ビルマの竪琴
 人生劇場
 あすなろ物語

天王寺中学9組 日記帳 見つかる 1960.5.12-1960.12.18

 

天中9組 毎日書かされた日記帳

2年9組 1960年昭和35年
天王寺中学2年生の時、クラス全員に向かって、榎原先生が言った。
「おまえら日記を書いてだせ」
配られた日記帳がこれ
『ホームルームハンドブック』発行所:中学生の友社 代表者:鈴木勝雄 電話:天王寺77ー9436 大阪市天王寺区真法印町70 昭和35年4月1日発行 定価100円
全279頁の日記帳に書き始めたのは、1960(昭和35)年5月12日(木)快晴からで、書き尽くして余白がなくなったのは、同年12月18日晴だった。
わたしは余白がなくなるまで、7カ月かかったが、クラスで一番早く、書きおえたのは、森田めりいさん、だった。
11月17日(木)曇後雨の日記に
 「ホームルームと時、森田さんは「日記帳がもう後一日分しかありません」と言った。
  ほんとうにすごい。というよりも、きちきちと一日も抜かさず、そして毎日僕たちの
  二倍も三倍も書いたとは、すごい」
と書いてあった。

  きのう僕等の班では日記を集めた。その中で、森田さんのは、すごかった。
  もう3月の頁に入っていたからだ。僕は森田が最高だと思った。
  その内容をどんなんかな、と思って見ると、なかなか、ぱっぱっと思ったことを
  ハッキリと、うまくまとめて、字も美しく書いていた。
  その日記を見て、話せるやつやなあと思い、好感を持った。
  今まででも僕等の「白鳥会」の事で聞きに来たり、そのノートを見せてやったりした
  ことがあった。(11月15日)

「白鳥会」という読書クラブを結成したことも書かれていた。会費は20円。会員は、時田勇二、辻本泰士、金井漢一、井上毅一郎、久保卓哉の、5人から始まったことがわかる。
榎原慎之助先生が何を言ったか、松原元子先生が何を言ったか、詳しく書かれていた。
時田、世良、北本、田中勝智、酒屋、滝本、二宮、中原、金山、川口、川口、別所、村田、辻本、上場、名合、井原、たちと、遊んだことが、話したことが、なぐられたことが、書かれていた。