2017年10月4日水曜日

紀伊民報 「鉛山温泉図」80年ぶり里帰り 白浜温泉描いた版木 2017年5月14日



紀伊民報 80年ぶり里帰り 白浜温泉描いた版木 「瀬戸鉛山温泉図」 和歌山市で発見
2017年5月14日

 田辺市の熊野歴史懇話会(橋本観吉代表)がこのほど、白浜温泉を描いた1890年発行の木版刷り「瀬戸鉛山温泉図」の版木を和歌山市内の古書店で見つけた。当時の白浜温泉の旅館「有田屋」当主が外注して造らせ、刷って観光土産として売っていた。版木は有田屋が閉館した1930年代以降、所在が分からなくなっていた。懇話会が入手し、約80年ぶりに紀南への「里帰り」が実現した。

 温泉図は、湯崎と瀬戸地区を海側から見た景観図。図の上部に、紀州藩に仕えた儒学者で文人画家・祇園南海(1677~1751)の漢詩「鉛山七境詩」と初代県知事で漢詩人・津田香巌(1841~1896)の作品「倣南海先生七境詩題目更撰五景詩」、漢詩人・菊池海叟(1799~1881)の作品「龍門石詩」が入れられている。
 
 「七境詩」「五景詩」は、既に観光地として知られていた白浜温泉の名所旧跡を歌っている。温泉図には、その内容に合わせるように千畳敷を示す「芝雲石」、御幸の芝を示す「行宮址」、崎の湯を示す「金液泉」、白良浜を示す「銀沙歩」、ほかに「平草原」「円月島」「御船山」といった名称を入れている。

 絵は香川県多度津町出身の南画家・藤田苔巖(1863~1928)が描いている。苔巖は、田辺の医師で文人墨客として知られる目良碧斎(1826~1895)と交流があり、苔巖が碧斎を訪ねた際、白浜温泉の有田屋に宿泊。その時、当主の三木善左衛門が苔巖に絵を依頼したのではないかと推測されている。

 有田屋は明治時代から昭和初期まで続いた旅館。湯崎で初めて内湯を造ったといわれ、南方熊楠や作家の梶井基次郎らも宿泊した。

 版木は縦50センチ、横70センチ、厚さ1.5センチ。有田屋が閉館まで館内に飾っていたとされている。

 裏面に「和歌山縣下西牟婁郡瀬戸金山村 貳百六拾五番地 三木善左衛門」の文字と彫師とみられる「大阪 板仙」の焼き印があるほか、別の所有者と推測される人名を書いた紙が貼られている。

 懇話会の橋本代表(69)=田辺市栄町=と多屋朋三さん(71)=同市下屋敷町=、福山大学名誉教授(中国文学)の久保卓哉さん(70)=白浜町瀬戸=が先ごろ、和歌山市築港の古書店「紀国堂」で見つけた。溝端佳則店主(56)が10年ほど前、大阪府内であった古書市で購入したという。

 久保さんは「円月島の名が初めて文書に登場したのが温泉図にある香巌の漢詩だ。香巌の作品は、他に掲載されたものがまだ見つかっていないので、温泉図はいろんな面で重要な意味を持つ。版木が紀南に戻って保存されることになり、よかった」と話す。

 懇話会は、田辺市を中心に紀南地方の古い史料を掘り起こし、埋もれた紀南の歴史を顯彰する活動を続けている。

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