2017年10月22日日曜日

まなじゅんじゅんえいじろうへ yuyaがヨットで優勝 ベルギー VOLVO OptiTour2017

まなじゅんえいじろう へ            2017ねん10がつ19にち

ゆやが ヨットで ゆうしょう
表彰台 まんなかのyuya 優勝

メダル カップ 両手で持つのは『2017-2020ルールブック』
ヨットクラブの人から本格的にセーリングをしてほしいと
本が贈られた


あのね
ゆや と かや という おとこの子の きょうだいが あるよ
まな じゅん えいじろう と しんせき だから
まな と じゅんじゅん は 白浜で いっしょに
バーベキュー と すいかわり を したよ
おぼえているよね
 

ゆや が
ベルギーにかえってから 5かい ヨットのレースに出て
いいせいせき だった って お父さんのコラン・お母さんのくりちゃんから
れんらくが あったよ

1かいめ 1-3-2  (2位)
2かいめ 3-1-1  (1位)
3かいめ 7-2   (4位くらい)
4かいめ 2-1   (1位)
5かいめ 3-1-1-3  (1位)
6かいめ 1-2-1-1     (1位)     Opti Tour 綜合優勝

すごいね
ボルボ 、お父さんのあのボルボ、そのボルボがスポンサーの ヨットレースだって

ことしの なつ も ゆや かや コラン くりちゃんが 白浜にきて
バーベキュー と はなび と すいかわり をしたよ
そのとき たぼじ と いっしょに なんかいも ヨットに のったよ
まな じゅん えいじろう が 白浜に きたときは もう ベルギーに かえった 
あとだった から いっしょに あそべなかった~  ざんねん むねん

まな じゅん えいじろう も なつは しらはまで ヨットに乗ろうね
じつはね お父さん・けんと は ヨットが すごく じょうずだよ
たぼじ も すごく じょうずだけど お父さん には まけるな~




まなじゅんじゅんえいじろうへ お化けやしき 2017.10.21.

  お化けやしき

白浜には
お化けやしき が あるよ

  こわいぞ~
  まっくらだぞ~
  血だらけのくびが ぶらさがっているぞ~

  なが~い かみのけ を たらした お化けが
  たっているぞ~

ハロウィンの ひに お化けやしきをするよ
こどもたちが お化けになるんだ
お化けやしきに はいってくる おとなを おどろかすんだよ

  板のうしろに かくれて
  カーテンのうしろに かくれて
おとなが くるのを まつんだよ
来たら
  鬼 の おめんをかぶって
  さだこ の おめんをかぶって
  がいこつ の おめんをかぶって
  まっか な 血 を かおにぬりたくって
   「イッヒッヒ~」
   「ガオ~!」
   「おかし くれ~」
っていって おとなを やっつけるんだ
さだこのおめん
おばけやしきの入口


血だらけのくび

おもしろいぞ~  
2017ねん10月19にち

まなじゅんじゅんえいじろうへ 白浜ハロウィン 2017.10.21

このまえの ハロウィン
白浜では 
お化けになったこどもが きたよ

あんまり こわいから にげたんだ
そしたら にげてもにげても すぐうしろに 
お化けが わんさか いるんだ
もう こわかったな~

たぼじは
 「おかし あげるさかい ゆるして~」
って いって 
お化けたちの ひとりひとりに チョコを あげたよ

マリオとスパイダーマン

まじょのきょうだい

そしたら お化けたちは
 「つぎの家に いこ~!」
 「ワーッ~」
って さけびながら はしっていった

まなじゅんじゅんえいじろうへ ハロウィンであそぼ~ 2017.10.21

まなじゅんじゅんえいじろう へ

  ハロウィン

えっへん
お~い みんな~ 
げんきか~

まじょのローラ こわいかおのヤコブ

ハロウィンがきた~
こどもがお化けになるひだよ 
お化けになって おとなを おどかしていいんだ
だから まな と じゅんじゅん が お化けになって
 「トリック・オア・トリート」
と さけぶんだよ
いいね もういちどいうよ
  「トリック・オア・トリート」
だよ
「トリック」っていう英語のいみはね
ヤコブ と ローラ
だますぞ! こまらせるぞ! いたずらするぞ!
っていういみだよ
「トリート」っていういみはね
よろこばしてくれぇ~! なんかくれぇ~! おかしくれぇ~!
っていういみだよ


イラーナおかあさん ヤコブ ローラ

おおかみのヤコブ 3さい

こわい絵本をもらったローラ


おとなは お化けをみて 
 「キャ~ッ!」
 「こわいよ!」
 「おかし あげるから ゆるして~」
と いって
おかしを くれるよ

おとなりの なんとかちゃんのいえへ いって
おもてから
 「トリック・オア・トリート!」
 って  いってみるんだよ

まなじゅんじゅんえいじろうへ ハロウィンえほん バッチ おくったよ 2017.10.21




まなじゅんえいじろう へ  20171021

 ハロウィンの えほん と バッチ だよ
 えほん は まなとじゅんじゅん にだよ
 えいじろう には 「スクイーズ」の「もも」を おくるんだけど まてどくらせど 
 とどかないんだ
 「スクイーズ」の「もも」は とどいてから おくることにするね
 おとうさんのおともだちの イギリスの  イラーナの こどもたちが 
ハロウィンおばけ ローラ
ローラ くちさけおんな
ヤコブ(3さい)とローラ(5さい) なかがいいね
 ハロウィン をした しゃしんが おもしろいね
まじょのローラ かぼちゃのヤコブ




2017年10月4日水曜日

紀伊民報 「鉛山温泉図」80年ぶり里帰り 白浜温泉描いた版木 2017年5月14日



紀伊民報 80年ぶり里帰り 白浜温泉描いた版木 「瀬戸鉛山温泉図」 和歌山市で発見
2017年5月14日

 田辺市の熊野歴史懇話会(橋本観吉代表)がこのほど、白浜温泉を描いた1890年発行の木版刷り「瀬戸鉛山温泉図」の版木を和歌山市内の古書店で見つけた。当時の白浜温泉の旅館「有田屋」当主が外注して造らせ、刷って観光土産として売っていた。版木は有田屋が閉館した1930年代以降、所在が分からなくなっていた。懇話会が入手し、約80年ぶりに紀南への「里帰り」が実現した。

 温泉図は、湯崎と瀬戸地区を海側から見た景観図。図の上部に、紀州藩に仕えた儒学者で文人画家・祇園南海(1677~1751)の漢詩「鉛山七境詩」と初代県知事で漢詩人・津田香巌(1841~1896)の作品「倣南海先生七境詩題目更撰五景詩」、漢詩人・菊池海叟(1799~1881)の作品「龍門石詩」が入れられている。
 
 「七境詩」「五景詩」は、既に観光地として知られていた白浜温泉の名所旧跡を歌っている。温泉図には、その内容に合わせるように千畳敷を示す「芝雲石」、御幸の芝を示す「行宮址」、崎の湯を示す「金液泉」、白良浜を示す「銀沙歩」、ほかに「平草原」「円月島」「御船山」といった名称を入れている。

 絵は香川県多度津町出身の南画家・藤田苔巖(1863~1928)が描いている。苔巖は、田辺の医師で文人墨客として知られる目良碧斎(1826~1895)と交流があり、苔巖が碧斎を訪ねた際、白浜温泉の有田屋に宿泊。その時、当主の三木善左衛門が苔巖に絵を依頼したのではないかと推測されている。

 有田屋は明治時代から昭和初期まで続いた旅館。湯崎で初めて内湯を造ったといわれ、南方熊楠や作家の梶井基次郎らも宿泊した。

 版木は縦50センチ、横70センチ、厚さ1.5センチ。有田屋が閉館まで館内に飾っていたとされている。

 裏面に「和歌山縣下西牟婁郡瀬戸金山村 貳百六拾五番地 三木善左衛門」の文字と彫師とみられる「大阪 板仙」の焼き印があるほか、別の所有者と推測される人名を書いた紙が貼られている。

 懇話会の橋本代表(69)=田辺市栄町=と多屋朋三さん(71)=同市下屋敷町=、福山大学名誉教授(中国文学)の久保卓哉さん(70)=白浜町瀬戸=が先ごろ、和歌山市築港の古書店「紀国堂」で見つけた。溝端佳則店主(56)が10年ほど前、大阪府内であった古書市で購入したという。

 久保さんは「円月島の名が初めて文書に登場したのが温泉図にある香巌の漢詩だ。香巌の作品は、他に掲載されたものがまだ見つかっていないので、温泉図はいろんな面で重要な意味を持つ。版木が紀南に戻って保存されることになり、よかった」と話す。

 懇話会は、田辺市を中心に紀南地方の古い史料を掘り起こし、埋もれた紀南の歴史を顯彰する活動を続けている。

紀伊民報 徳川家の礼状見つかる 白浜の旧家が保管 2017年9月16日

紀伊民報 2017年(平成29年)9月16日 紀伊文化欄

徳川家の礼状見つかる
宿泊した旅館宛て
白浜の旧家が保管

紀州徳川家の第16代当主・徳川頼貞(1892~1954)が為子夫人と熊野地方を旅行した際、宿泊した白浜温泉(白浜町)の旅館「有田屋」に宛てた礼状がこのほど、白浜町内の旧家で見つかった。厚遇を受けたことに対する礼状で、内容を確認した福山大学名誉教授の久保卓哉さん(67)=白浜町瀬戸=は「古くから栄えた温泉街の歴史の一端を知ることができる」と話している。

 頼貞が熊野地方を旅行したのは1919年。当時の様子を掲載した地方紙「牟婁新報」によると、頼貞・為子夫妻と執事の山東誠三郎、お付きの人ら計5人が5月13日に東京を出発。那智勝浦町や田辺市、御坊市、和歌山市内などを巡った後、同26日に和歌山市から帰途に就いた。有田屋には19日に宿泊した。
 礼状は幅約20センチ、長さ約160センチの巻物で山東誠三郎が書いた。「厚遇を受け夫妻はとても満足した様子だった」などと記し、為子夫人が書いた古歌の書(色紙)と書を掛ける軸とともに一つのきり箱に入れている。きり箱が送られてきた際、100円も添えられていた。
 旧家の関係者によると色紙はなくなっており、「宝物として旅館の部屋に飾っていたがなくなった、と騒ぎになったことを有田屋の親族から聞いたことがある」という。
 礼状には「1月26日」の日付があり年号はなかったが、文中に「アメリカで開かれた国際労働会議(19年10月)に出席したので礼が遅くなった」との記述があることから「20年1月26日」とみられる。
 頼貞は楽譜、音楽文献、古楽器の収集家として知られ、「音楽の殿様」と呼ばれる。妻の為子は侯爵島津忠重の妹。山東誠三郎は御坊市で育ち、慶應義塾大学を卒業後、頼貞のイギリス留学に同行。その後、徳川家の執事になり、財務部長として徳川家の事業運営に携わった。
 有田屋は明治時代から昭和初期まで続いた湯崎地区を代表する旅館の一つ。当時珍しかった木造3階建てで、多くの文化人も宿泊した。
 館主の三木善左衛門は頼貞夫妻を迎えるため、夜具や家具・道具類を全て新調した。久保さんは「徳川家の当主を迎えることがどれだけ栄誉なことで大変なことであったのか、その一端をうかがい知ることができる」と話す。また、頼貞から贈られた100円は、今の約50万円に相当するとみられるという。