2019年8月9日金曜日

トルコ軍艦エルトゥールル号遭難 明治23年9月16日 救助した樫田文右衛門 紀伊新報


大島村樫野 樫野文右衛門 トルコ軍艦遭難当時の追憶


土耳古軍艦 遭難当時の追憶
唯一の生存者 樫田文右衛門翁談

 大島の東南端樫野崎の灯台より西約二丁のところにトルコ軍艦エルトグロール号遭難を追悼記念する碑が寂しく建っている。
 明治二十三年九月十六日夜エルトグロール号がわが皇室に対する修好の使命を果たして帰国の時、本島沖で一大颶風に遭い碑下の岩礁に触れ無惨にも使節オスマンパシャ以下艦員五百八十七名が悉く艦と運命を共にしたので、当時救助に従事した唯一の生存者樫田文右衛門翁は八十三歳の高齢をなお矍鑠として白髯を撫しつつ語る。

難破して岸に打ち上げられた負傷者たちがけづったような断崖を這いあがって来て『わたし、トルコ、ジャパン』『わたし、トルコ、ジャパン』と繰り返し、左右の人さし指を組あわせて仲のよいことを知らせ、傷の痛みを訴えて同情を求めるので、私は村の人達に死体は捨ておけ、生きている人を保護せよと、大竜寺というお寺に収容し、当時六十何軒かの家から鶏や芋をあつめてスープのようなものをつくり、二日二晩保護して三日目に大島の方へ移らせたので、それから私は墓葬係として死体をあつめたのですが、夏のこととて死屍が腐敗してづるづると手にひっついてくるので、人夫が逃げ出すのです。私も毎日着物を着かえてゆきましたが夕方にはもうくさくなってしまいます。二十日あまりも働いたがその間御飯もろくろくのどを越さぬほど臭気が鼻につきました。あの石碑の芝生一面に死体を埋めてあるので、始めに一人づつ棺に納めて埋葬するつもりで、なかなか大勢でしまいには芝生に大きな穴を掘って埋めたのです。
オスマンパシャは上衣だけ見つかりました。私は今年八十三歳ですがこの年まで無事で長生き出来るのもトルコを大事にしたお蔭です

と、童顔を輝かせ大事そうにふところから時の石井知事の賞状を示した。

 和歌山県紀伊国東牟婁郡大島村大字樫野 樫田文右衛門
  明治二十三年九月東牟婁郡大島村沖合においてトルコ軍艦エルトグロール号遭難の際
 義挙を以て数日間被害死者捜査及埋葬等人夫取締方懇切に従事候段、奇特候事。
       明治二十四年二月二十六日 和歌山県知事従四位勲三等 石井忠亮 印 

因みにエルトグロール号は屯数一一〇〇屯、六〇〇馬力であって、大砲大十門、同小十門、檣(ほばしら)三本、艦員六百五十名で、生き残るもの僅かに六十三名そのうち全く無事が五名、負傷が五十八名であった。村から徴発したゆかたなど短くて困ったということである。また県庁への通知の如きも田辺まで人をはしらせねばならなかったというのである。
(紀伊新報 昭和452日 第三面)(漢字、仮名を新字体にした)


なお、『和歌山県行幸記録』に載る樫田文右衛門に関する記述は以下のとおり。

 此の夜御召艦長門に於ては岡田海軍大臣主催の晩餐会を催され(略)、各艦長並に御召艦乗組佐官以上の将校その他に御陪食仰せ付けられしが、陛下には(略)側近の方々と御機嫌麗しく種々御物語あらせ給い、此の間海軍軍楽隊は泰西の名曲を奏して嚠喨たるオーケストラの響きは御興を添え奉り、此くて御宴は一時間に及び午後九時陪席の諸員一同は面目を施して各自退下し、
 陛下には更に別室に出御あり折柄御召に依りて伺候したる土耳古軍艦遭難救助者樫田文右衛門を御側近く召され侍従を通して約二十分間に渉り、遭難当時の思出物語を聞召されたり。
(『和歌山県行幸記録』第一章 千載一遇の盛事 第二節 潮岬村行幸 二 大島村須江白野御立寄 14頁)

樫野崎灯台旧官舎への取材
昭和天皇の串本行幸の時、御召艦長門がどこに停泊し、陛下が上陸した串本町の新桟橋はどのあたりで、陛下が伝馬船に乗り箱眼鏡で海底を見たという須江の白野海岸と通夜島との間の海はどうなのか、また樫野文右衛門の旧家と墓地はどこにあるのかを調べるために、串本を訪れたのは平成31419日であった。あらかじめ紹介されていた樫野崎灯台の旧官舎解説員濵野三功(はまのみつのり)氏のもとに伺い、大島とトルコ軍艦エルトゥールル号遭難のことについて詳しく教えていただいた。
樫野文右衛門翁が遭難当時を追憶して「鶏や芋をあつめてスープのようなものを作」ったと昭和天皇に語った背景には、樫野翁が若い時から樫野崎灯台の官舎に出入りし、官舎に住むイギリス人やインド人の食事をまかなっていたからであるという。だから遭難者であるトルコ人に西洋風のスープを作って食べさせることができた。
灯台と官舎はイギリス人技師によって明治3年に建てられ、官舎に常駐する彼らによって灯台の管理も行われていた。建設当初の明治3年は、樫野文右衛門23歳の時で、この若者が住む家と樫野崎灯台の官舎は徒歩で17分ほどの距離である。食事のまかないを頼まれた若者はイギリス人たちが持ちこんだ調理具を使い、彼らに料理を提供した。灯台業務がイギリス人から日本人に移管されたのは明治9年で、離任の際に彼らは鍋やフライパンの調理具を樫野文右衛門に贈ったという。その時のフライパンがトルコ軍艦遭難の時に役立ったことになる。
濵野氏は文右衛門から数えて三代目の方が昔からの家にお住まいで健在であると教えてくれたが、残念ながらお訪ねすることができなかった。墓の所在もふくめて次の機会に期したい。

[参考文献]
「樫野崎灯台・官舎及びエルトゥールル号事件に関する調査研究報告書」和歌山県教育委員会 2013年発行
『歴史街道』日本とトルコを結ぶ絆 エルトゥールル号の奇跡 時を越えた友情 PHP研究所 20133月号
『日本遙かなり エルトゥールルの「奇跡」と邦人救出の「迷走」』門田隆将 PHP研究所 2015年発行


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