2019年11月5日火曜日

朋加さんに 2019.10.19.


朋加さんに

なんて素晴らしい出会いだったか
朋加さんの 心の深みにある
笑みの泉と あおあおした木陰で
ぼくは深呼吸していました

手術室看護師をめざしているって?
メスをわたす朋加さん
麻酔の介助をする朋加さん
あなたが手術室に入るだけで
医師にやる気を出させ
患者の心をやわらげる

ミス・ナースの大会があれば いい
受け答えのことばと表情は 人を魅了し
難問にであって さらりとかわす度胸は
だれもまねすることができない
女王の冠はあなたのものだから 出なさい
    (詩的に ・ )



深呼吸のリズムを一緒にしてくれたとき ぼくから目をはなさないんだもの うれしかったなあ
血圧を測るとき 看護師の顔になるんだもの 指の先まで緊張しました
リハビリで腕と腕をからませて歩いたとき もっとよろければよかった

髪をあらってもらったんだよ ぼくは
エッヘン 朋加ちゃんにだよ
ぼくの友だちに自慢して 最後は写真をみせて
やつらをぺちゃんこにしてやろう
でも 首をしめられたなあ
その呑気さが いい
    (続いて詩的に ・ )

2019年8月22日木曜日

OP級ヨーロッパ選手権 トルコ・イスタンブール 「強風で知らさせた世界の壁」 ヨットモーターボートの雑誌『KAZI舵』吉迫由香選手 

写真上:トップグループのフリー帆走
写真下:会場となったホテルには参加32カ国の国旗が並ぶ
(国立国会図書館より)


成績表
男子1~10位と、日本選手の順位
女子1~10位と、日本選手の順位
吉迫由香選手(広島)は2004年アテネオリンピック女子470級日本代表
 RACE file  Optimist European Championship
1994 OP級ヨーロッパ選手権
  1994.7.23~30  トルコ・イスタンブール
  report/久保卓哉(日本OP協会ヨーロッパ遠征監督)

3月末の国内選考レースで代表権を獲得した8名の選手と監督、サポート陣4名の計12名でこの選手権に臨んだ。
西はギリシャ、ブルガリアと接し、東はイラン、イラクと接するトルコの夏は、出発前に見たNotice of Race に書かれたセーリングコンディション(気温22~28度、風速5~6㎡/sec)とは大きく違うものだった。

現地では、気温35~38度、10~12m/secの風が吹き続ける高温、強風のシリーズとなった。
参加国は32カ国、女子選手76名、男子選手145名。加えて各国の監督、コーチ、家族などが一堂に会し、今年のヨーロッパ選手権はトルコということもあり、過去に例を見ない大規模な大会となった。

チャーター艇とゴムボートを受取り、三船和馬コーチの指導のもと二日間の海上練習をしたが、選手達には強風にとまどう様子が見られ、セーリングをしているのか、沈をしないように頑張っているのかわからない状況で、これは厳しいことになりそうだという予感がした。

軽風ならば楽にトップ8に入り入賞できそうな日本選手がいたのだが、強風となると、アルゼンチン、デンマーク、スウェーデン、ノルウエー、オランダなどには強風好きの速い選手がたくさんいた。

ヨーロッパ選手権は、男子と女子は別のフリートでレースを行う。男子は145艇を4つのグループに分けて総当たり戦を行い、女子は76艇が同時にスタートする。

日本選手のレース結果は満足できるものではなかったが、選手権全体を見渡して、男女とも15位以内の選手のセーリングは実に見事だった。

OP級ではセルフベーラーが禁止されているため、帆走中に入ってきた水は自分で汲み出さねばならないのだが、彼らは強風のクローズホールドで、ハイクアウトしながら水を汲み出し、汲み出す腕をバランスモーメントに利用してさらに艇を起こしてフラットにしていた。
強風で水の入った艇とそうでない艇とのスピード、上り角度の差は歴然としていた。

また男女とも上位の選手には、クローズホールドでセンターボードを上げて走る選手がいなかった。16位前後の選手を境にしてセンターボードを上げる選手が見えはじめ、順位が
下がるほど、センターボードの引き上げ具合が大きい。
これは見事なまでに比例していた。

つまり強風だからといってセンターボードを上げて走っていたのでは15位以内に入れないということだ。センターボードを上げずに走るためには、体力、セーリングの技術、セールトリムの工夫、集中力、闘争心、慣れ、など多くのことが要求されるが、今回はそのレベルの差が歴然としていた。。
これは、選手のみならず、指導者側にも強風に対するトレーニング上の修正が必要だと思われた。

成績表:1~10位と日本選手の順位 (男子)
    1~10位と日本選手の順位 (女子) →写真を拡大

【吉迫由香選手】
バルセロナ470ワールド代表決定
博多湾の風 470メダルレース
全日本470級選手権







2019年8月9日金曜日

昭和天皇の行幸 瀬戸鉛山尋常小学校1年 松本貞子 


瀬戸鉛山尋常高等小学校一年生 松本貞子

感激の涙

 畏れながら 陛下には御仁徳に富ませ給い、至仁至慈、民を視ること子の如く老をいたわり幼を憐れませ給い、今次の行幸に際して風雨、炎天もいささかの御厭いなく、到る処御英姿を拝せさせ給わんとの深き思し召しより、第一日瀬戸鉛山村の如き兼ねて降雨の際は直ちに臨海研究所の裏桟橋より御上陸の事に御治定ありしに、さる御事なく、降りしきる雨中に濡るるがまま御徒歩にて予定の御道筋を進ませ給い、余りの難有さに数万の奉拝者は恐懼措く所を知らず、覚えず大地にひれ伏して、唯感涙に咽ぶのみ。

 可憐なる一少女(瀬戸尋常高等小学校一年生松本貞子)は奉拝後胸を躍らせながら左の如く語り、

雨はさんさんと降ってましたけれども 天子様がコンクリートの道を御疲れの模様もなく私達の側近く後出遊ばされた時、雨はぴったり止みました。最敬礼のおつむを恐る恐上げると 天子様はにっこりと御笑い遊ばして黒いまんとの間から白い手袋の御手を上げて御会釈下さいました。私はもう嬉しくて嬉しくて嬉し泣きに泣けて来てぽたぽた膝の上に難有涙をこぼして俯(うつむ)いてしまいました

嬉しくて嬉しくて嬉し泣きに泣けてきたとは実に肺腑よりほとばしり出たる告白。奉迎者はいずれも此の感激の涙あるのみ。

     (『和歌山県行幸記録』第二章 国体の精華 第一節 御聖徳の一端 21頁)
(仮名づかいのカタカナを平かなにし、漢字、送り仮名を新字体にした)


松本貞子さんについて分かったこと
昭和461日雨中の瀬戸を歩く天皇陛下の龍顔を見たという人を見つけだして、話を聞くことは今ではむずかしくなった。ましてや、その時尋常小学校一年生だった松本貞子さんを捜し出すことは更にむずかしい。不可能かも知れないと思いつつ松本貞子さん捜しを始めた。
 瀬戸1丁目の「はまや」の長女・藪本近衛(やぶもとこのえ)さん(94 大正14年生まれ)を訪問したのは平成の末年、31417日であった。近衛さんは尊父不動庵藪本近蔵が発行した回覧文芸誌『赤芋』の所蔵者であり、現在でも町立図書館から一度に5冊の本を月に二度、三度と借り出す読書家でもある。近衛さんは次のように語って下さった。「天皇陛下がお通りした時はまだ小学校に上がっていない時で、小さな身体で大人の後ろからのぞいたが見ることはできなかった。しかし確かにお通りであることは分かった」「松本貞子さんという人は覚えていない。その人が一年生だったということは私よりも一歳上」「ちょっと待って、私の友達何人かに聞いてみてあげる」。すぐに電話機に向かい手帳を開いて電話番号を押してくれたが、「元気な人は少なくなった。寝ついたり入院したりで」とのことで呼び出し音は鳴るもののすぐには通じなかった。後で何人かに聞いておいてあげるとの言葉をいただいて御宅を辞去した。
 その足で白浜から田辺市立図書館に行き、『紀伊新報』の合冊本を閲覧申請して天皇行幸の串本記事を繰っていると、近衛さんから電話があった。「松本貞子さんを知っている人が見つかった。私の友達のてるちゃんが知っていた」「玉置輝代という同級生で、てるちゃんによると松本貞子さんのお父さんは先生をしていて、瀬戸2丁目の借家に住んでいたという話」。それを聞いて私は近衛さんの電話に感謝しつつ合冊本の複写数十枚を終え、翌日玉置輝代さんの家に向かった。
 輝代さんは次のように語って下さった。「天皇陛下がお通りした時は子供ながら見にいって、私は天皇陛下を見た」「松本貞子さんは確かに小学校にいた。学年が違うから一緒に遊んだことはなかったが、松本貞子さんの名前ははっきりと覚えている」「お父さんは先生で瀬戸2丁目の辻先生の持家を借りて住んでいた。その家には雨水を貯める大きな甕があり、その甕の中に子供が落ちて死んだ。近所でえらい騒ぎをしたのでよく覚えている。子供は男の子で松本貞子さんの弟さんだったと思う」「そのうち松本さんたちは他所に引っ越していった」という。輝代さんの記憶は具体的で多くの情報を得ることができた。
 松本貞子さんのお父さんが先生であったということを手がかりに『百年の回顧 創立百周年記念』(白浜町立第一小学校 昭和49年発行)を調べると次の記述があった。

        在勤教職員一覧
                   松本安助 校長 勤務年月 昭和4年4月~昭和8年3月 期間4年

松本貞子さんの父は昭和4年から8年までの四年間小学校の校長を務めていたことが分かった。まさしく天皇行幸の年と重なる。そして一年生52名のなかから貞子さんが選ばれたのは校長の娘ということと関係がありそうである。
 だが『百年の回顧 創立百周年記念』の「卒業生名簿」を調べると、昭和4年に一年生であった貞子さんは昭和10年3月の卒業であるが、そのなかに名前の記載がない。卒業年度を待たずして他地に引っ越し学校を転校したのであろう。上に引く松本安助校長の在任期間が昭和8年までであったことから、その年月は昭和8年3月であったと思われる。まさしく玉置輝代さんの記憶と一致する。
 貞子さんの同級生51名が健在であれば更に記憶を語ってくれたであろうが、残念ながら今となってはどの同級生にもお会いすることはできなかった。

トルコ軍艦エルトゥールル号遭難 救助した樫田文右衛門の話 『千載の感激』

  御召の光栄に浴して
        東牟婁郡大島村樫野 樫田文右衛門

 六月二日は私が一生の、又私の一家松代迄の記念すべき日であります。生年八十余歳の老齢で畏くも 天皇陛下の御前に御召を受け、四十九年以前の土耳古軍艦遭難当時の模様を言上申しました。

其時は全く 陛下の御威徳に打たれて言葉も常の如くに出ぬ位であった。幸に無事御用をすませて帰宅の際忝くも御菓子を賜り、重ね重ねの光栄身に余って感激の涙が止める事が出来なかった。

陛下の御召艦を伏拝みつつ帰途についた時、自分は今少し若ければ死を以て忠義を尽くさんものをと思ふ事切りであるが、如何せん既に此の老齢なれば、せめて明治神宮、多摩御陵へ参拝して此の光栄の御礼を申し上げやうと心に誓った。

賜りし御菓子を家内其他の人々に拝ませて神前に供へ、そして明日の当地行幸を奉迎しやうと床に就いたが、本日の光栄を思ひ浮かべて感慨無量にてさすがに寝つかれねば到頭そのまま夜を明かしました。

明くれば六月三日真に行幸日和と申上げやうか好天気で奉拝者の群は早朝より奉拝場を黒山に埋めた。

午前十時頃であった。陛下には築港より御上陸遊ばされ、御歩行御快活に私共の前を御通りになって樫野崎灯台へ御向ひ遊ばされ、又昨日私が言上した土耳古軍艦遭難記念碑を天監になって御帰り遊ばされた。

私は昨日の事が思ひ出されていつしか熱い涙が止めどなく流れました。
行幸後二日にして私は早速明治神宮、多摩御陵へ参拝すべく上京しました。
今はもう私は総ての望みが叶った様、満足の喜びに満ちてゐます。

(『千載の感激』和歌山県、昭和五年六月一日発行)

トルコ軍艦エルトゥールル号遭難 明治23年9月16日 救助した樫田文右衛門 紀伊新報


大島村樫野 樫野文右衛門 トルコ軍艦遭難当時の追憶


土耳古軍艦 遭難当時の追憶
唯一の生存者 樫田文右衛門翁談

 大島の東南端樫野崎の灯台より西約二丁のところにトルコ軍艦エルトグロール号遭難を追悼記念する碑が寂しく建っている。
 明治二十三年九月十六日夜エルトグロール号がわが皇室に対する修好の使命を果たして帰国の時、本島沖で一大颶風に遭い碑下の岩礁に触れ無惨にも使節オスマンパシャ以下艦員五百八十七名が悉く艦と運命を共にしたので、当時救助に従事した唯一の生存者樫田文右衛門翁は八十三歳の高齢をなお矍鑠として白髯を撫しつつ語る。

難破して岸に打ち上げられた負傷者たちがけづったような断崖を這いあがって来て『わたし、トルコ、ジャパン』『わたし、トルコ、ジャパン』と繰り返し、左右の人さし指を組あわせて仲のよいことを知らせ、傷の痛みを訴えて同情を求めるので、私は村の人達に死体は捨ておけ、生きている人を保護せよと、大竜寺というお寺に収容し、当時六十何軒かの家から鶏や芋をあつめてスープのようなものをつくり、二日二晩保護して三日目に大島の方へ移らせたので、それから私は墓葬係として死体をあつめたのですが、夏のこととて死屍が腐敗してづるづると手にひっついてくるので、人夫が逃げ出すのです。私も毎日着物を着かえてゆきましたが夕方にはもうくさくなってしまいます。二十日あまりも働いたがその間御飯もろくろくのどを越さぬほど臭気が鼻につきました。あの石碑の芝生一面に死体を埋めてあるので、始めに一人づつ棺に納めて埋葬するつもりで、なかなか大勢でしまいには芝生に大きな穴を掘って埋めたのです。
オスマンパシャは上衣だけ見つかりました。私は今年八十三歳ですがこの年まで無事で長生き出来るのもトルコを大事にしたお蔭です

と、童顔を輝かせ大事そうにふところから時の石井知事の賞状を示した。

 和歌山県紀伊国東牟婁郡大島村大字樫野 樫田文右衛門
  明治二十三年九月東牟婁郡大島村沖合においてトルコ軍艦エルトグロール号遭難の際
 義挙を以て数日間被害死者捜査及埋葬等人夫取締方懇切に従事候段、奇特候事。
       明治二十四年二月二十六日 和歌山県知事従四位勲三等 石井忠亮 印 

因みにエルトグロール号は屯数一一〇〇屯、六〇〇馬力であって、大砲大十門、同小十門、檣(ほばしら)三本、艦員六百五十名で、生き残るもの僅かに六十三名そのうち全く無事が五名、負傷が五十八名であった。村から徴発したゆかたなど短くて困ったということである。また県庁への通知の如きも田辺まで人をはしらせねばならなかったというのである。
(紀伊新報 昭和452日 第三面)(漢字、仮名を新字体にした)


なお、『和歌山県行幸記録』に載る樫田文右衛門に関する記述は以下のとおり。

 此の夜御召艦長門に於ては岡田海軍大臣主催の晩餐会を催され(略)、各艦長並に御召艦乗組佐官以上の将校その他に御陪食仰せ付けられしが、陛下には(略)側近の方々と御機嫌麗しく種々御物語あらせ給い、此の間海軍軍楽隊は泰西の名曲を奏して嚠喨たるオーケストラの響きは御興を添え奉り、此くて御宴は一時間に及び午後九時陪席の諸員一同は面目を施して各自退下し、
 陛下には更に別室に出御あり折柄御召に依りて伺候したる土耳古軍艦遭難救助者樫田文右衛門を御側近く召され侍従を通して約二十分間に渉り、遭難当時の思出物語を聞召されたり。
(『和歌山県行幸記録』第一章 千載一遇の盛事 第二節 潮岬村行幸 二 大島村須江白野御立寄 14頁)

樫野崎灯台旧官舎への取材
昭和天皇の串本行幸の時、御召艦長門がどこに停泊し、陛下が上陸した串本町の新桟橋はどのあたりで、陛下が伝馬船に乗り箱眼鏡で海底を見たという須江の白野海岸と通夜島との間の海はどうなのか、また樫野文右衛門の旧家と墓地はどこにあるのかを調べるために、串本を訪れたのは平成31419日であった。あらかじめ紹介されていた樫野崎灯台の旧官舎解説員濵野三功(はまのみつのり)氏のもとに伺い、大島とトルコ軍艦エルトゥールル号遭難のことについて詳しく教えていただいた。
樫野文右衛門翁が遭難当時を追憶して「鶏や芋をあつめてスープのようなものを作」ったと昭和天皇に語った背景には、樫野翁が若い時から樫野崎灯台の官舎に出入りし、官舎に住むイギリス人やインド人の食事をまかなっていたからであるという。だから遭難者であるトルコ人に西洋風のスープを作って食べさせることができた。
灯台と官舎はイギリス人技師によって明治3年に建てられ、官舎に常駐する彼らによって灯台の管理も行われていた。建設当初の明治3年は、樫野文右衛門23歳の時で、この若者が住む家と樫野崎灯台の官舎は徒歩で17分ほどの距離である。食事のまかないを頼まれた若者はイギリス人たちが持ちこんだ調理具を使い、彼らに料理を提供した。灯台業務がイギリス人から日本人に移管されたのは明治9年で、離任の際に彼らは鍋やフライパンの調理具を樫野文右衛門に贈ったという。その時のフライパンがトルコ軍艦遭難の時に役立ったことになる。
濵野氏は文右衛門から数えて三代目の方が昔からの家にお住まいで健在であると教えてくれたが、残念ながらお訪ねすることができなかった。墓の所在もふくめて次の機会に期したい。

[参考文献]
「樫野崎灯台・官舎及びエルトゥールル号事件に関する調査研究報告書」和歌山県教育委員会 2013年発行
『歴史街道』日本とトルコを結ぶ絆 エルトゥールル号の奇跡 時を越えた友情 PHP研究所 20133月号
『日本遙かなり エルトゥールルの「奇跡」と邦人救出の「迷走」』門田隆将 PHP研究所 2015年発行


紀伊民報 『昭和天皇の紀南行幸』出版 2019.8.3

昭和天皇の紀南行幸
 絵葉書で見るシリーズ
 白浜、串本まとめ出版
 田辺の「あおい書店」

 田辺市湊の「あおい書店」(多屋朋三代表)はこのほど、昭和天皇が白浜町と串本町を行幸した時の絵はがき87枚を収録した「昭和天皇の紀南行幸―絵葉書と資料―」(A4版57ページ)を出版した。
 あおい書店が2012年から出版している「絵葉書で見るシリーズ」全12種・15冊のうち、「串本(上・下)」と「瀬戸・鉛山・白浜温泉第2集(上・下)」で取り上げた「天皇陛下の紀南行幸」を一冊にまとめた。
 熊野歴史懇話会(橋本観吉会長)が企画、白浜町出身で福山大学名誉教授の久保卓哉さん、橋本会長、多屋代表が編集にあたった。
 白浜行幸については「綱不知桟橋に到着された天皇陛下」や「円月島の前を進まれる天皇陛下」など30枚を、串本行幸は「潮岬で太平洋を臨まれる天皇陛下」や「トルコ記念碑の前で説明を受けられる天皇陛下」など57枚を収録している。
 冊子には他に田辺湾と串本周辺の地図、白浜・串本それぞれの「参拝者堵列割当表」が添付されている。
 また、久保さんが行幸の日程表を作成している中で、白浜行幸に関連して奉迎に参列した瀬戸鉛山尋常小学校一年・松本貞子さんが感激の言葉を述べていることや、串本行幸の際、トルコ軍艦エルトゥールル号遭難事故で救助にあたった樫田文右ヱ門さんが、御召艦(長門)内で天皇陛下に当時の様子を語っていることが分かり、これらに関する解説なども収録している。
 50部印刷。関係者に20部ほど配布した。税込千円。
 問合せは、あおい書店(0739・25・2100)へ。

令和元年2019年8月3日

2019年4月9日火曜日

紀伊民報 明治大正昭和初期の瀬戸鉛山 シリーズ完結編を出版 2019.4.6

紀伊民報 平成31年2019年4月6日

「絵葉書で見る」シリーズ完結編を出版
明治・大正・昭和初期の瀬戸・鉛山

 田辺市湊の「あおい書店」は写真集「絵葉書で見る明治・大正・昭和初期の瀬戸・鉛山 南紀白浜温泉 第二集上・下」(A4判、上・下セットで1500円)=写真=をこのほど出版した。
  熊野歴史懇話会(橋本観吉会長)が企画した。6年前に出版した「南紀白浜温泉」の続編。1929年の昭和天皇行幸時の様子を伝える写真など134枚を収録している。

 和歌山市築港1丁目の古書店「紀国堂」の店主溝端佳則氏から提供された写真で、上巻に69枚、下巻に65枚を掲載。白浜町出身で福山大学名誉教授の久保卓哉氏が説明文を作成した。

 昭和天皇行幸時の写真は上巻に掲載され16枚。戦艦長門の艦載水雷艇で綱不知桟橋に着岸、上陸されたところや小中学生、高齢者らが奉迎する様子がよく分かる。久保氏がまとめた詳細な行幸記録(下巻)も収録している。

 ほかに、コンクリート舗装された行幸当時の臨海道路、白良浜のサンドスキー場、白良浜でのハマグリ採り風景、鉛山鉱山の風景など珍しい写真が掲載されている。

 瀬戸の家並みと本覚寺を描いた絵(画・南三浪、1919年)、湯崎にあった旅館「有田屋」の昭和初期の広告なども収録。瀬戸地区の文学青年が主になって発行した文芸同人誌「アカ芋」などを参考に分かりやすい説明が加えられ、白浜温泉の歴史を知る上で貴重な資料となっている。

 上巻は白浜町出身で文教大学名誉教授の宮本倫好氏が巻頭辞を、県議の立谷誠一氏が後序を、下巻では同町出身の書家弓場龍渓氏が小序、久保氏が編集後記とむすびを担当している。

 懇話会の「絵葉書で見る」シリーズはみなべ町から串本町まで12種(15冊)出版され、今回が完結編となった。