2013年6月3日月曜日

明治大正昭和初期の繪葉書で見る南紀白浜温泉 あとがき

 
 白浜温泉を一度は訪れてみたいものと、多くの人に憧れをいだかせた最たる人物といえば、祇園南海であろう。

 祇園南海は、漢詩文と書画に秀でた紀州藩の儒官で、長子の尚濂をともない湯崎と瀬戸の名所に遊んだ。その十日間をしるした「鉛山紀行」(漢文)は、多くの人を魅了してきた。そこには、千畳岩、金液泉(崎の湯)、銀沙歩(白良浜)、円月島はもちろんのこと、本覚寺、藤九郎社、江津良、太刀谷までをも巡ったことがしるされ、とりわけ、臨海浦を回って目にした塔島の奇観の描写は、人びとの興味を引いた。「三洞玲瓏として、宛(あたか)も牕牖(ソウヨウ。まど)の如し」がそれである。どうやら享保18年(1733)の塔島には、まるで連子窓(れんじまど)のように三つの洞穴が連なっていたようだ。

 本書の80から84の絵葉書に写る塔島を、享保18年にタイムスリップして見ると、なかなか面白い。今の塔島に残る大山、大仏、ふで山を連結すると、三つの洞穴があいた塔島の奇観が出現するからだ。  本書の絵葉書は、主として鈴木喜徳郎氏(白浜町。故人)所蔵のものを使用した。そのうち、3,4,5,68,69,79,及び白浜小唄の絵葉書は、多屋朋三氏(田辺市。あおい書店)の所蔵で、43,44の写真は、湯崎館(白浜町)所蔵のものである。また絵葉書の選定は、多屋朋三氏により、掲載順の選定は、久保卓哉によった。

 絵葉書に付した説明文の作成にあたっては、往時の白浜温泉をよく知る識者を訪問し、地理的名称や建造物の位置等について教えを請うた。一度ならず二度に及ぶこともあり、また一時間ならず数時間に及ぶこともあった。

 鈴木喜十郎氏(白浜町湯崎)からは、湯崎温泉の旅館の位置と海岸の名称、製塩建屋のことを教えていただいた。本来は鉱湯の横にある川口屋旅館が、絵葉書では有田屋と淡路屋の横に写っているのは、ここに別館を建てた時代があったからだ、と鈴木喜十郎氏ならではのことを教わった。

 真鍋政次氏(白浜町綱不知)からは、大正時代の機帆船の名称と船主名、埋立以前の綱不知湾の地理、田辺・湯崎と綱不知とを結ぶ巡航船、臨海北浦の地曳網の仕組みと綱不知の漁船との関係、三段壁の高見(見張り台)では四月に湾内に入り十月に南に出るボラの魚影で海が赤く見えたこと、などを教わった。

 正木克之介氏(白浜町綱不知)からは、東白浜水族館の建物の特定と、綱不知湾の丸山、小丸島の位置、桟橋の浦島旅館には昭和天皇行幸の陪臣が宿泊したこと、などを教わった。

 井澗ひろ枝氏(白浜町湯崎)からは、みどり湯の位置とその規模を、鮮明な記憶を呼び覚ましながら丁寧に教えていただいた。

 また鈴木喜徳郎氏が創設し現在もweb上で公開されている「きとはんサーバー」http://www.kitohan.sakuraweb.com/ からは、時代考証、文献資料の所在など多くのことを教わった。郷土を愛した氏の早逝が惜しまれる。心よりご冥福を祈り申し上げる。

 最後に大書しておかなければならないのは、鈴木史子氏への謝意である。氏は本書出版の趣旨に理解を示し、数百枚に及ぶ絵葉書を貸与して下さった。末筆ながら厚くお礼を申し上げる。 
                        2013512日 記 久保卓哉    

 主要参考文献(発行年順)

雑賀貞次郎『白浜湯崎 温泉叢書 歴史文献篇』紀南の温泉社、昭和81020
雑賀貞次郎『白浜湯崎 温泉叢書 文藝篇』紀南の温泉社、昭和9520
雑賀貞次郎『南紀随筆 椿の葉巻』紀南の温泉社、昭和13519
雑賀貞次郎『白浜湯崎の諸文献』温泉の紀州社、昭和16125
雑賀貞次郎『白浜温泉史』白浜町役場観光課、昭和3645
白浜町誌編纂委員会『白浜町誌紀要No.1 町のあゆみ(白浜編)』白浜町、昭和533月吉日
宮崎伊佐朗『瀬戸鉛山村 村の日記』白浜町、昭和5311
白浜町誌編纂委員会『白浜町誌紀要No.4 町のあゆみ』白浜町、昭和563
白浜町誌編さん委員会『白浜町誌』本編下巻一、白浜町、昭和5921
白浜町誌編さん委員会『白浜町誌』本編上巻、白浜町、昭和61310
白浜町誌編さん委員会『白浜町誌』本編下巻三、白浜町、昭和633

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