2013年6月7日金曜日

ホタル 飛ぶ 飼育 生まれる 2013.6.6~7.22

ホタルの幼虫 生まれる
                  合計
  6月23日  176匹
  6月24日  565匹     741匹
  6月25日  363匹    1104匹
  6月26日  132匹    1236匹
  6月27日 
  6月28日  京都 茉映 おみやげ持参
  6月29日  22匹     1258匹
  6月30日  128匹     1386匹
  7月 1日  11匹     1397匹
  7月 2日  11匹     1408匹
  7月 3日  31匹     1439匹 ← ふ化の第二弾始まるか?低調から上向き傾向
  7月 4日  12匹     1451匹
  7月 5日  4匹      1455匹
  7月 6日  1匹      1456匹
  7月 7日  0匹
  7月 8日  1匹      1457匹
  7月 9日  1匹      1458匹
  7月10日  1匹      1459匹
  7月11日  1匹      1460匹
  7月12日  0匹
  7月13日  0匹
  7月15日  1匹      1461匹
  7月16日  0匹
  7月19日  産卵用の苔を 撤収
  7月22日  ビニール袋、リュックサックに幼虫1461匹とカワニナを入れて白浜に運ぶ
          白浜到着 みな元気 白浜の水道水で 生息可能と判明


飼育籠の成虫
  5月29日→6月17日 ♀5  ♂15 
  6月17日         飼育籠のホタル 光らなくなる


庭で成虫になって飛ぶ
  6月6日 ♂ 4匹 
  6月7日 ♂ 1匹 



2013年6月3日月曜日

白浜 塔島の洞穴を記録した史料

桑山玉洲の絵

 白浜温泉の塔島に、三つの洞穴があると書いた祇園南海の「鉛山紀行」と、その洞穴を詠んだ漢詩「游灘渡」を裏付ける絵が見つかった。それを知ったときは眼が飛び出るほど驚いた。ここに掲げた「鉛山勝概」図巻がその絵だ。(画像は和歌山県立博物館図録『特別展 桑山玉洲のアトリエ-紀州三大文人画家の一人、その制作現場に迫る-』2013427日発行による)

 この絵が和歌山県立博物館に展示されていると知らせてくれたのは多屋朋三氏だった。丁度本書の原稿をあおい書店の二階に持参した日で、私は前夜に祇園南海の「三洞玲瓏、宛如牕牖」を取り上げて<あとがき>を書いたばかりであったから思わず声をあげた。
 本書が掲載する大正時代の絵葉書の塔島に洞穴はない。だが、過去の史料が伝える塔島には洞穴があり、穴の数は三から一まで、年を経るにつれ減少してきた。それをまとめると次のようになる。

【塔島の洞穴を記録した史料】

洞穴の数
史料
作者
描写
年代
鉛山紀行
祇園南海 漢文
「三洞玲瓏」
享保18年(1733
游灘渡
祇園南海 漢詩
「唐嶼三窓」 「石門一穴」
享保18年(1733
鉛山勝概
桑山玉洲 絵画
三窓と石門一穴
寛政5年(1793))
三山紀略
菊池西皐 漢文
唐嶼「有三牕」
享和2年(1802
温泉の日記
蘭秀   絵画
目鑑岩 二穴
天保5年(1834
瀬戸古事
雑賀家所伝古文書
とう島「二ツ岩に穴有、但し此頃右之穴一ツかけたり、今ハ穴一ツなり」
天保5年(1834)以降の作
西国三十三所名所図会
松川半山 絵画
トウシマ 一穴
嘉永元年(1848

桑山玉洲の絵は、塔島に三つの洞穴があったことを証明する。この絵を見出した和歌山県立博物館と同館の安永拓世氏の功績は計り知れないほど大きい。安永拓世氏が執筆した図録の解説は秀逸で研究の深さとその成果がよく分る。また図録に桑山玉洲の絵と南紀白浜の景勝地との関係を寄稿した白浜町教育委員会学芸員の佐藤淳一氏のコラムも読みごたえがある。

 白浜温泉の美しさを余すことなく描いた桑山玉洲の絵は拡げると5メートルに及ぶ巻物である。白浜町はかけがえのない文物に出あったことになる。


 2013518日 記

明治大正昭和初期の繪葉書で見る南紀白浜温泉 あとがき

 
 白浜温泉を一度は訪れてみたいものと、多くの人に憧れをいだかせた最たる人物といえば、祇園南海であろう。

 祇園南海は、漢詩文と書画に秀でた紀州藩の儒官で、長子の尚濂をともない湯崎と瀬戸の名所に遊んだ。その十日間をしるした「鉛山紀行」(漢文)は、多くの人を魅了してきた。そこには、千畳岩、金液泉(崎の湯)、銀沙歩(白良浜)、円月島はもちろんのこと、本覚寺、藤九郎社、江津良、太刀谷までをも巡ったことがしるされ、とりわけ、臨海浦を回って目にした塔島の奇観の描写は、人びとの興味を引いた。「三洞玲瓏として、宛(あたか)も牕牖(ソウヨウ。まど)の如し」がそれである。どうやら享保18年(1733)の塔島には、まるで連子窓(れんじまど)のように三つの洞穴が連なっていたようだ。

 本書の80から84の絵葉書に写る塔島を、享保18年にタイムスリップして見ると、なかなか面白い。今の塔島に残る大山、大仏、ふで山を連結すると、三つの洞穴があいた塔島の奇観が出現するからだ。  本書の絵葉書は、主として鈴木喜徳郎氏(白浜町。故人)所蔵のものを使用した。そのうち、3,4,5,68,69,79,及び白浜小唄の絵葉書は、多屋朋三氏(田辺市。あおい書店)の所蔵で、43,44の写真は、湯崎館(白浜町)所蔵のものである。また絵葉書の選定は、多屋朋三氏により、掲載順の選定は、久保卓哉によった。

 絵葉書に付した説明文の作成にあたっては、往時の白浜温泉をよく知る識者を訪問し、地理的名称や建造物の位置等について教えを請うた。一度ならず二度に及ぶこともあり、また一時間ならず数時間に及ぶこともあった。

 鈴木喜十郎氏(白浜町湯崎)からは、湯崎温泉の旅館の位置と海岸の名称、製塩建屋のことを教えていただいた。本来は鉱湯の横にある川口屋旅館が、絵葉書では有田屋と淡路屋の横に写っているのは、ここに別館を建てた時代があったからだ、と鈴木喜十郎氏ならではのことを教わった。

 真鍋政次氏(白浜町綱不知)からは、大正時代の機帆船の名称と船主名、埋立以前の綱不知湾の地理、田辺・湯崎と綱不知とを結ぶ巡航船、臨海北浦の地曳網の仕組みと綱不知の漁船との関係、三段壁の高見(見張り台)では四月に湾内に入り十月に南に出るボラの魚影で海が赤く見えたこと、などを教わった。

 正木克之介氏(白浜町綱不知)からは、東白浜水族館の建物の特定と、綱不知湾の丸山、小丸島の位置、桟橋の浦島旅館には昭和天皇行幸の陪臣が宿泊したこと、などを教わった。

 井澗ひろ枝氏(白浜町湯崎)からは、みどり湯の位置とその規模を、鮮明な記憶を呼び覚ましながら丁寧に教えていただいた。

 また鈴木喜徳郎氏が創設し現在もweb上で公開されている「きとはんサーバー」http://www.kitohan.sakuraweb.com/ からは、時代考証、文献資料の所在など多くのことを教わった。郷土を愛した氏の早逝が惜しまれる。心よりご冥福を祈り申し上げる。

 最後に大書しておかなければならないのは、鈴木史子氏への謝意である。氏は本書出版の趣旨に理解を示し、数百枚に及ぶ絵葉書を貸与して下さった。末筆ながら厚くお礼を申し上げる。 
                        2013512日 記 久保卓哉    

 主要参考文献(発行年順)

雑賀貞次郎『白浜湯崎 温泉叢書 歴史文献篇』紀南の温泉社、昭和81020
雑賀貞次郎『白浜湯崎 温泉叢書 文藝篇』紀南の温泉社、昭和9520
雑賀貞次郎『南紀随筆 椿の葉巻』紀南の温泉社、昭和13519
雑賀貞次郎『白浜湯崎の諸文献』温泉の紀州社、昭和16125
雑賀貞次郎『白浜温泉史』白浜町役場観光課、昭和3645
白浜町誌編纂委員会『白浜町誌紀要No.1 町のあゆみ(白浜編)』白浜町、昭和533月吉日
宮崎伊佐朗『瀬戸鉛山村 村の日記』白浜町、昭和5311
白浜町誌編纂委員会『白浜町誌紀要No.4 町のあゆみ』白浜町、昭和563
白浜町誌編さん委員会『白浜町誌』本編下巻一、白浜町、昭和5921
白浜町誌編さん委員会『白浜町誌』本編上巻、白浜町、昭和61310
白浜町誌編さん委員会『白浜町誌』本編下巻三、白浜町、昭和633

紀伊民報 塔島の穴は三つだった 桑山玉洲の絵巻で判明 2013.6.1

紀伊民報 2013年6月1日土曜日

【塔島の穴は三つだった】
【桑山玉洲の絵巻で判明】
【地元史家ら指摘】
【白浜・番所の崎沖】

    白浜町瀬戸、番所の崎沖にある塔島が、江戸時代には三つの穴(海蝕道)がある
   一つの島だったことが田辺市湊、あおい書店の多屋朋三氏や同町瀬戸の福山大学
   名誉教授、久保卓哉さんらの調べで分かった。江戸時代に活躍した和歌山市出身
   の文人画家、桑山玉洲(1746~99)の絵巻に描かれていた。

 塔島は、番所の崎にある南方熊楠記念館から北約250㍍に位置する二つの島。穴はない。

 久保さんによると、塔島の穴について記した漢詩や漢文、絵図の史料はいくつかあり、
江戸時代に紀州藩に仕えた儒学者で、文人画家だった祇園南海の漢文「鉛山紀行」
(1733年)と漢詩「游灘渡」(同)に穴は三つとある。その後、時代が進むにつれて文献に
残されている穴の数は二つに減り、1848年作の「西国三十三所名所図会」では一つに
なっている。

 このほど、和歌山市の県立博物館で桑山玉洲の展覧会が始まり(6月2日まで)、多屋さ
んが知人から塔島の風景がある絵巻が展示されていることを聞き、実物を確認したとこ
ろ穴が三つ描かれていた。

 絵巻は1793年の作「鉛山勝概図巻」(縦28.6㌢、横約5㍍)。紀伊藩の医者だった友人ら
と白浜に旅行した時に、船上から見た風景をスケッチして仕上げたとみられる。

 県立博物館の安永拓世学芸員によると、ことし2月、古美術商がこの絵巻を所有してい
ることを知り、展覧会で展示するため借りた。保存状態がよく、玉洲の代表作で一級の
史料という。絵巻には塔島のほかに三段壁、千畳敷、湯崎、瀬戸、円月島などの景勝地
も描かれている。

 絵巻には穴が四つあるように見えるが、展示会の図録にコラムを寄せた白浜町教育
委員会の佐藤純一学芸員は「左端は、現在も番所の崎にある石門。塔島の穴と重ねる
ように描いたのでは」と解説する。さらに「塔島は円月島と同じ約1500万年前のれき岩が
主体の崩れやすい岩でできている。昔は三つの穴があったが、風化でなくなったと考え
られる」と話す。

 久保さんは「塔島は、窓が空いているように見える三つの空洞をもつ島だったことが
鉛山紀行に書かれていたが、その風景を描いた絵はこれまで見つかっていなかった。
史料を裏付ける絵巻がみつかり驚いた」と感慨深げで、多屋さんも「この絵巻が見つ
かったことで、穴は三つだったことが証明された」と話している。
 
紀伊民報 2013.6.1